母がよく言っていましたが一歳半で100曲1番から3番まで正確に歌えたそうです。
幼い頃は親戚が大勢集まった時にはいつも〇〇ちゃん歌ってと言われて歌っていました。入鹿池の花火大会の日に浴衣を着てみんなの前で唄ったことは今も記憶に残っています
幼稚園の頃も歌うことが大好きでした。当時歌っていた歌を今も覚えています。
中学生の頃が一番歌が上手かったと思います。愛知教育大学附属名古屋中学校の音楽の池田先生がセレナーデを歌った時は聴き惚れたと言ってくださって成績は9段階評価の一番上のAまるをくださいました。
池田先生は地元テレビ局の『どんぐり音楽会』の審査委員長をしていました。
ちょうど森昌子がデビューした頃でよくスター誕生を見ていました。阿久悠さんや戸倉俊一さんが審査員をしていた伝説のオーディション番組です。司会は萩本欽一さんです。
当時のわたしは唄うことに自信がありました。中学3年生の時に父がクラシックギターを買ってくれて中学3年の夏休みは、
受験勉強もしないでギターばかり弾いていました。
作曲は小学4年生の頃からしています。初めて作った曲の歌詞です。「花を咲かせる陽気な天使。街や村に憧れのせて。」
ピアノの弾き語りでした。
高校生になってからはフォークギターも買いギターで曲を作るようになりました。人生で一番曲を作っていた頃です。クラスメイトの詞に曲をつけてあげたこともありました。
その曲(幸福という名の駅)と吉田拓郎の『結婚しようよ』を従兄弟の結婚式でギターの弾き語りをしました。
その頃から街に出る時とかいつもギターを抱えて歩いていました。高校生の頃、南山高校の方たちと初めてバンドを組みました。わたしはギターではなくキーボードとヴォーカルでした。
最初に歌った曲はサントワマミーでした。渋いですよね。
その後わたしはバンドを抜けましたが他のメンバーはレコードを出したそうです。別の近所の南山高校出身の人にそう聞きました。
バンドを組みたいとは思っていましたが中々出会いがなくて
一人でギターの弾き語りをしていました。再びバンドを組んだのは大学に入学して軽音楽部に入部した後です。
最初一年生全員で一つのバンドを組みました。わたしの担当はキーボードでした。残りの一年生がYMOのコピーをギターにベースとドラムとキーボードの4人で始めて人気になりました。
わたしともう一人は彼の高校時代の友人と一緒にバンドを組みました。わたしの担当はキーボードとヴォーカルでした。もう一人ヴォーカルはいてリーダーでした。
アメリカンロックのコピーをしていたので歌詞は英語でした。
鶴舞公園の普選段でステージに立ちました。出来は最悪だけどいい思い出になっています。当時の友人と言えばみなバンドをやっていました。普選段では多くのバンドが出演しました。
他大学からも出演しました。司会は電子工学科のひとみちゃんともう一人はセミプロの女の子です。その時演奏した曲の一つに途中にフルートの間奏が入った曲もありました。オケにも入部していてフルートを吹いていましたから。
大学卒業後もギターを弾いていました。結婚後もピアノやギターを弾いていました。でも横浜に引越ししてからはギターをあまり弾かなくなってしまいました。
夫からはもうギターを弾く必要なんかないねと言われてギターは押入れの天袋の奥にしまわれてしまいました。
自宅にはピアノも無くてとても寂しい思いをしました。また夫からカラオケも禁止されました。唄うのはもっぱら我が子に聴かせるくらいになってしまいました。
その後友人からアメリカに転勤になってピアノを預かってくれる人を探している人がいると聞いてアップライトピアノが我が家に来ました。ピアノを存分に弾けるようになりました。
6年ほど前のことになりますが車の中で人生何も楽しみがない。せめてカラオケで歌うことを一つくらい許してくれてもいいじゃないと言いました。
僕がいないところならいいと言われ友人と一度カラオケに行きました。その時は頼まれて「異邦人」を歌いました。「未来予想図Ⅱ」も歌いました。
でも残念ながら再び夫にカラオケで歌うことを禁止されてしまいました。YouTubeの動画を見ながら歌ったりしています。
ポケカラのアプリを入れてポケカラでも歌ってみましたが今はポケカラのアプリも削除してしまいました。
ギターが上手な人が身近にいたら伴奏してもらって唄ってみたいなあと思うこともありますがコロナ禍なのでしばらくは無理です。
早くコロナ禍が収束して自由に歌ったりスポーツが出来るようになるといいですね。