新春3部作記事もいよいよ最終回!
(さっき勝手に3部作にしようと思い立ちました~ )
前回からの続きです♪


親の強すぎる自我の犠牲になるのは、
家族のうち、誰か一人が一手に受けてしまうことが多いと、
どこかに書いていましたっけ。

母のイライラや満たされない感情に、
もろに影響を受け、すっぽりとハマって抜けられなくなっているのが、
うちの家族の場合は私の妹なのかもしれません。


私は早くから母に見切りをつけ、
自分のやりたいことをどんどんカタチにしていき、
結婚してさっさと家から離れましたが、

妹は、
「あんたは何でそんなに出来が悪いんや!」と事あるごとに言われ続けて大きくなり、
大人になっても母とは衝突ばかり。
それでいて家を離れることもなく、
未だに結婚せずに実家で両親と共に暮らしています。

そんなイライラの矛先を、
「あんたはお気楽でいいよな」と、こちらに向けてくることもよくあることで。
一事が万事、
「~~してるから、そんなことになるんやろ?!」と、攻撃的な会話になってしまうのも、
母から受けて来た言葉がけがそのまま身につき、
自分を防衛するために鎧を付けざるを得なかったからなのでしょう。

彼女と話をしていると、
私はそんなに自分勝手でワガママで冷酷なのかなぁと、
凹みそうになることも多かったのですが、

去年一年で、ずいぶんと私の内面もすっきりとした結果でしょうか、
「自然に聞き流す」ということができるようになって、
不必要な部分には脳が反応しない仕組みになったようです。
(全く聞いていない、もしくは気にならなくなった・・ということです。 )

誰もが未熟な親に育てられ、ある程度傷を負いながら大きくなっていくのだけれど、
その際、兄弟姉妹の間での葛藤みたいなものも同時に生じているから、
生きにくさの元には、きょうだいとしての自分の中にある「しこり」みたいなものがあるのかも知れませんね。

そして
ファミリー・コンステレーションは、まだまだ続く・・・

私と主人が作った家族たち。
この家族のなかで負を引き受けているのが長男なのかもしれない。
(と、今は思っているけれど今後は変わっていくかもしれない・・)

彼はもうすっかりと大人の年齢だけれど、すっきりしていない。
かつては母親の自分を責めた時期もあったけれど、
去年一年で、そんな無駄な思いは手放したようで、
「彼は彼の人生を生きる、私は私の人生を生きる」と、ふと思うようになりました。

去年一年に何があったのか?
私の心の中では断捨離が行われていたのでしょうね。
今までの凝り固まった「絶対に!」な思いや価値観、「~ねばならない」など、
もう要らないや!と手放してしまったものが多々あったのでしょう。

そんなスッキリ感の証しが、

ここ数年の間にできていた「口元の縦じわ」が消えた万歳 ということ。

顔の筋肉は表情筋でできているので、心の状態や感情が表情として表れますよね。
年齢を重ねると、筋肉はしなやかさを失い、戻りにくくなってしまいます。
私の場合、
心はいつも不満の表情(口を尖んがらせて表します)でいっぱいだったのでしょうね。

それが消えたということは、
不満に思っていた事たちがもう居なくなったということなのでしょう。

表情筋、嘘つかない!かお2
わかりやすい~~~きらきら。


家族という人間模様の織りなす人生を生きるということは、

自分が誰かをなんとかしようとするのは
とても傲慢なことだと教えてくれているように思います。

ここが腑に落ちるまでには、
今まで自分を縛り、苦しめてきたものに気づいて脱ぎ捨てることが
自然な流れなんだろうなぁ・・・

自分が楽に生きやすい道を歩いたらいいんだよな・・・


と思う、新春です。