実は「ありがとう」の語源は、仏教に由来するといわれます。
お釈迦様が説かれた「盲亀浮木(もうきふぼく)の譬え」に「ありがとう」の語源があるのです。
それは、お釈迦様が、阿難というお弟子になされた、こんなたとえ話です。


「そなたは人間に生まれたことをどう思っているか」

「大変喜んでおります」

「では、どれくらい喜んでいるか」

「どれくらいと申しましても……」

「では、人間に生まれることはどれほど有難いか、たとえをもって教えよう」

そう仰られ、お話しされたのが盲亀浮木の譬えです。

「果てしなくひろがる大海原を思い浮かべるがよい。その底深くに、目の見えいない一匹の亀(盲亀)がいる。その亀は100年に一度、海面に顔を出す。
一方、海面には一本の丸太棒が浮いている(浮木)。その丸太の真ん中に拳くらいの大きさの穴が空いている。丸太は波のまにまに風のまにまに波間をただよっているのだ。阿難よ、この眼の見えない亀が、浮かび上がったとき浮木の穴に、ひょいと頭を入れることがあるだろうか」

「さようなことはとても考えられません」

当然でしょう。太平洋のような広い海ですから、亀は日本の近くにいて、丸太はアメリカ近辺に浮いているかもしれません。
風呂の底からピンポン玉を浮かび上がらせて、浮かばせている小さなおもちゃに狙いを定めても、簡単には当たってくれません。
まして、この亀は目が見えませんので、丸太の穴どころか丸太自体を目指すこともできないのです。しかし、お釈迦様はなおも尋ねられます。

「絶対にないと言いきれるか」

絶対にないか、といわれれば、一応、亀の頭が入る穴は開いているのですから「絶対ない」とは言いきれません。

「確かにないとはいいきれませんが、無いと言ってもよいくらい難しいことです」

「ところが阿難よ、人間に生を受けることは、この亀が、丸太ん棒の穴に首を入れることが有るよりも、難しいことなんだ。有り難いことなのだよ


「有り難い」とは「有ることが難しい」ということで、めったにないことをいいます。
人間に生まれることは、それほど喜ばねばならないことだと、お釈迦様は教えさとされているのです。
これが「ありがとう」の語源です。
では、人間に生まれることがどれほど難しいか、他の生き物と比較して考えてみましょう。


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