得ようとして落ち込むなら、静かに生きても良いよね。 | 本当に笑いたい時だけ笑えばいい:ミニマムに生きる



仙台のドトールで飲んだコーヒー。

25年以上前、ドトールでバイトしていました。

スタバが日本に上陸する前。

そして、ドトールのコーヒーの味は好き。

 

さて、ここのところ心の揺れがあって、

いろいろ考えてしまうわけです。

 

「あまり考えず、ただ楽しいこと・好きなことをすれば」と言われるのですが、

「楽しいこと・好きなこと」が分からないから、揺れるわけで。

 

「楽しいこと・好きなこと」って自然に現れるものじゃないんです。

これがあれば、みな幸せですよ。

見つけられないから、苦しいんです。

 

でも、「楽しいこと・好きなこと」は特別なことじゃなくてよいことだけは

最近、気づいて楽になりました。

で、ぼんやりするのもいいかな~って。

 

多くの方がSNSなどで発信するのは、特別なことがあったときやことなので、

それを見て、自分には何もないって思ってしまう必要はない。

その方も毎日特別なことが起きているわけではなく、

起きたから書いているだけ、と思えば。

 

昨日、過去に出会った方で、
こういう生き方を選ばれたのか~と思う方の名前をネットで見つけました。

おそらく、粛々と続けられたんだろうな、と。

そこにどんな思いがあった(ある)かは分からないけれど、

無理に背伸びすることなく、ただ興味関心ごとを続けてきた。

その結果の今。

 

そういう生き方って素敵。

 

私は、ちょっと欲張りになっていたかもしれません。

もうちょっと淡々としてもよいかな、と。

 

しかし、私の中には、真逆に野心みたいなものがあって、←飼いならせない

それが暴れると急にいろいろやりたくなって、動きまわるので回収することになる。

それが良いときもあるけれど、苦しいときもある。

ほんと厄介なもんです。

 

 

今の若い方は、「今」にフォーカスしている人が多いという話を昨日していて、

かつてそれを刹那的とか言っていたけれど、実際、人生100年と言いつつ、

全員が100年生きるわけもなく。

突然のカットアウトもあるわけで。

正解なんて分からない。

 

たぶん私の中には、以前から「今」ってのはあって、

明日が来ることを当たり前だと思っていない部分がある。

この考えは、強迫性障害とは無縁です。

 

あと、先日都内の神社をめぐっていたとき、

私が好きな神社との関わり方に気づきました。

これはまた、後日書くかもです。

 

求め過ぎなくても、生きることはできる。

 

すごーい散文みたいになった。

とにかく、思っていること吐き出したくなった朝です。