こんにちは

 

最近は、城についての投稿はご無沙汰しています。

 

近頃、お城ブームとかいって、持て囃されているようです。人気が出るのは

良いのですが、田舎の山城に多数の観光客が訪れ、石垣崩壊の恐れがあって

入場制限、禁止等の話も聞こえています。

 

基本的には、どのように保存をし、次世代に繋げるかという事だと思います。

 

そこで、問題になるのが、元の姿と現在の変遷を把握する事だと思います。

 

発掘と文献による調査が中心になるでしょう。ただ、古文献は少なく貴重です。

 

この本は、豊臣期から江戸初期に、資料を集めて纏めた物の様です。

これの対をなす物に諸国当城の図があります。こちらは江戸期の大名城郭です。

 

全体的に現地調査もしくは詳しい方が書いた図だろうと言われているようです。

 

浅野文庫諸国古城の図より三河市場城跡 昭和56年12月10日発刊

 

ベージュ色の区画は曲輪、黒線は土塁線、曲輪廻りの灰色のコの字ラインは

石垣線と思われます。

 

最初は30年位前、豊田市の整備前に行きましたが、樹木が茂り、草が生え、道も

分からないような所を進みました。

 

兎に角、歩きにくいので、本丸と覚しきところまで行き、引き返しました。

 

それから10年位し、史跡整備が終了したというので行きましたが、綺麗になりすぎて

よく分かりません。

 

私は古いお城へ行くときは、近所の方に、謂われや言い伝えを聞きます。

 

市場城も近所の方々に謂われ等を聞きました。

 

テレビで、石垣が途中で無くなっているのは、見える所だけ石を積み、隠れた所は

積まなかったと言われていました。

 

確かに、中途半端な石垣や古図にある所に無い所が、実際歩くと散見されます。

 

特に本丸北東部の土塁ですが、4~5m程下の基底部に何故か石垣の石と覚しき物が

 

ここに1個、あそこに1個と数個散見されます。

 

テレビで話されたように、途中で止めたような石垣もありました。

 

以前近くの方から、江戸初期から廃城だったので、近くの住人は棚田の整備に城の

石垣を流用したと言われました。

 

表から見えにくい所を選んで少しずつ運んだそうです。

 

北東部の土塁下は一番分かり難いのでごっそり持ち運んだのだろうとの事でした。

 

基本的には地元の方に聞くのが一番です。

 

もっとも、浅野文庫諸国古城の図が完全に信頼できるとは限りません。

中には、方位間違い、絵図と城名が間違っている物もあります。

 

それは又今度。