
仕事をする上で、セオリーとかノウハウとかは、どんな業界業種にもあるだろう。
厳密な意味は微妙に違うんだろうが、「こういう時はこうする」「こうしておけば上手く行く」というような、一種の型というのか、方法論の事を書いている。
「多くの場合で上手く行く方法」であり、個人の能力的なものや個々の状況に応じた方法というよりは、言うなれば「誰でもどんな時でも上手く行く経験的に得られた方法」と言うようなニュアンスが強い。
実際に多くの場合で上手くいくので、それは無根拠に、どうしてそうするのか?と言った事が考慮されずに行われる事が多い。
例えば、最近だが、某県の企業の社長が「同県出身者は採用しない」みたいなことを言って批判された。同県人は閉鎖的な人が多いとか、そんな理由だったと思うが、これは彼自身のもつセオリーである。
同県人に閉鎖的な人が多いのが事実だとしても、個人個人では閉鎖的な人もいれば、そうでない人もいるはずである。
本来なら、個人個人を見て採用すべき話な訳で、批判されるのはそう言う事だろうが、とはいっても、個人個人を的確に見極め採用すると言うのは困難なのだ。少なくともその社長、その企業には困難なのだ。
だからそんなセオリーが生まれる。
一般的に企業で大卒が積極的に採用されるのも、逆に大卒は採用しないなんて企業もあったはずだが、それもその企業なりのセオリーである。
大卒が必ずしも有能ではないし、逆に大卒が必ずしも無能でもない。
本来なら個々で判断すべき話だが、それが困難なので、セオリーとしてそう言う事をするのである。
別段そんなセオリーを批判しているわけではない。それは仕方の無い事なのだ。
つまり、セオリーと言うのは、よく考えるとわかるが、その人なりその企業なりの能力的な低さが故のものなのだ。
個別で対応する事ができないから、セオリーが生まれるのだ。
もちろん、個別で対応するより、画一的に対応した方が能率的であると言うような合理主義の結果かもしれないが、結果的には無根拠で行われる以上、それは能力的な問題であるのだ。
ちょっと話はずれるが、昔まだ若かった頃の話だが、
僕がある仕事をしたとき、当時の僕の上司であった人が、「どうやったの?」「どういう方法でやったの?」としつこく聞いてきた事がある。当時僕はその質問の意味が解らなく、つまり、特別な方法があるわけでもなく、特別な手順があるわけでもなかったので、答え様がなかったのだ。「どうやった?っていわれても、、、普通に」としか答えられなかったのだが、後に意味は解った。
その人は、セオリーとかノウハウですべてができると思い込んでいたのだ。方法論が解れば同じ事が出来ると思い込んでいたのだな。自分にそれが出来ないのは方法を知らないからだと。
類似として良くあるのは、特定のソフトウェアさえあれば、その使い方を知っていれば、同じ事が出来ると思っている人なんている。
もちろんそれで出来る事もあるだろうが、むしろ、ソフトウェアを使う人の能力やセンス、スキルによる事だって多いわけである。
セオリー、方法論なんて存在しないことはいくらでもある。
方法を知らないから出来ない、なんて考えるのは無能の中でも特に無能と言えるだろう。
一般人が100mを9秒台で走る事が出来ないのは、走り方を知らないからではない。
もちろん100mを9秒台で走るための方法論や、訓練法などは存在するかもしれない。でもそれを知っていれば誰でも出来るわけではないということだ。
セオリーを批判するつもりも無いし、セオリーは時に重要である。でも、セオリーって万能ではなく、むしろ時に弊害となることもあるのだ。
こういう時はこうしておけば良いとか、無根拠、無条件で常にすべてに対応できるなんて考えているとすれば、それは無能の現れである。とはいえ、だれでも陥りやすいことでもあろう。