白拍子と呼ばれる、歌舞を踊る女性芸人が歴史上に登場する。
有名なのは源義経の寵愛を受けた静御前、平清盛の寵愛を受けた祇王や仏御前などだ。

白拍子は、芸人でもあるが、巫女であって、売春婦でもあった。
このあたりが現代人の感覚ではピンとこないだろうと思われる。
つまり、芸人と言う事は賤民階級であるということであり、それが売春婦である事は理解できても、それが巫女という神聖な職でもあり、また義経や清盛といった高貴な身分の愛妾でもあるというのが理解しにくい所だろうと思われる。

これを理解するのはそもそも、売春と言う行為が悪である、というのは近代的なキリスト教的な価値観でしかない、ということで、それが解っていれば別段難しい事ではない。
古来日本では売春と言う行為は悪ではない。むしろ神聖な行為であった。
そう考えれば白拍子という職業も理解できるはずである。

とはいえ、売春が神聖な行為である。といっても多くの人は理解しない。しようともしないだろう。
思い込みが激しいとか、思考停止とか、そんなことはさんざん書いてきた事だが。

売春は神聖な行為である。古来の人はなぜそう考えたのか?そのことのヒントになるような話を書こうと思う。

話は飛ぶようだが、現代には
身体障害者向けに性的サービスをする職業と言うのがある。言うなれば、身体障害者向けの風俗である。
こういう事を書くと見て見ぬ振りをする人もいるだろうが、身体障害者にしてみれば深刻で切実な問題である。
身体障害者にも性欲はある。しかし例えばその障害により身体の自由が利かないために自分で処理できないのである。
もちろん親に頼める事ではない。友達に頼む事も難しい。
そういう切実な要望に応えるサービスなのである。
売春とか風俗とかいうと、汚らわしいとか不潔であるとか思う人もいるだろうが、本当にそうだろうか?
僕は全くそうは思わない。
性欲を満たされず悩む身体障害者がその性的サービスを受けたら、相手の女性をそれこそ女神が天使の様に思うはずだ。
その風俗嬢は汚らわしい存在なのだろうか?
僕は汚らわしいなんて全く思わない。それどころか、むしろ清らかで神聖だとすら思う。
現実に、身体障害者向けに性的サービスをする女性と言うのは、看護師だったりヘルパーの資格を持つ人たちが多いそうである。
聖職と呼ばれる仕事は世にはいろいろあるだろうが、この職業こそ聖職というに最もふさわしいと僕は思う。

では、身体障害者向けではない、一般の風俗や売春はどうかといえば、それも本質的には変わらない。
醜男でモテない男にだって性欲はある。それを一時的ではあれ満たしてくれる風俗嬢はそんな男には女神か天使に見える。
無論、自らの性欲を満たすために金で女性を買うと言う行為は汚らわしい行為だろうとは思う。
でもそれは男の方が汚らわしいのであって、その相手をする風俗嬢が汚らわしいのではない。
むしろ、そんな汚らわしい欲望を受け止め、浄化(といって良いのか解らないけども)するのであれば、それは神聖で清らかであると言えるはずである。
性欲自体を汚らわしいといってしまうのは簡単である。しかし、それは現実として排除できないものである以上、それを見て見ぬ振りをするのはただの欺瞞である。

手が汚れているといって、手を洗う。手は清浄になったかもしれないが、手を洗った水は下水となりどこかを汚す。
清浄の行き着くところには必ず不浄がある。
不浄を受け止める行為があるとすれば、それはどこかを清浄にする行為であって、それは神聖な行為であろう。
不浄とは、それだけで神聖性を帯びるのだ。

余談だが、だからと言って、売春婦や風俗嬢になることをすすめているつもりはない。
かつては苦界などと言われる様に、とてもつらくリスクも多い職業である。
すすんでするべき仕事ではない。
ただ、それが卑しい汚れた職業だからするべきではない、などということでは決してない、ということを書いているのである。