大阪・心斎橋を舞台にした全20話の連載小説

 

 

「誰かにとって特別な存在でありたい。」 そんな思いから始まる、ある五十歳の男の物語です。

 

※本作品はフィクションです。登場する人物・団体・出来事は創作であり、実在のものとは関係ありません。

 

・・・・・

 

五十歳になった。

 

その年、僕は不倫に溺れた。

 

大阪市内にいくつかの収益不動産を所有し、小さな不動産会社を経営している。社員は数人。世間から見れば、それなりに成功した男なのだろう。

 

もちろん、僕よりはるかに多くの資産を持つ経営者を何人も知っている。会社の規模も、人脈も、彼らとは比べものにならない。

 

それでも、自分の境遇には十分満足していた。

 

足るを知る。

 

それが僕の信条だった。

 

仕事は安定している。妻との関係も悪くない。高校生になった息子は、ほとんど僕と話さなくなったが、反抗的というほどでもなかった。

 

何かが足りないと感じる理由はなかった。

 

それでも、大きな不動産の契約が見込まれると、心が落ち着かなくなった。

 

一つの取引で数千万円の利益が出ることもある。契約がまとまれば会社は潤い、社員にも還元できる。家族の生活もさらに安定する。

 

だが、契約が現実味を帯びてくると、胸がざわついた。

 

まとまった利益への高揚感と緊張。そして、自分は仕事ができる、という自信。その感情が身体の中で絡み合い、眠りが浅くなる。

 

 

そんな夜、僕はリビングのソファに座り、スマートフォンをこっそり開いた。

 

隣の寝室では妻が眠っている。

 

仕事とは関係のない誰かに会いたかった。

 

できれば、若くて綺麗な女性がいい。

 

僕の会社も、所有する不動産も、これまでの経歴も知らない女性から、一人の男として興味を持たれたかった。

 

まだ自分には価値がある。

 

まだ誰かから求められる。

 

それを確かめたかったのだ。

 

既婚者向けの出会いサイトには、「家庭を壊すつもりはありません」と書く男女が並んでいた。

 

「互いの生活を尊重したい。」

 

「日常に少しだけ刺激がほしい。」

 

「まずは食事から。」

 

どの文章にも、よく似た慎重さがあった。

 

慎重さを装いながら、その実、誰もが日常の外側にある何かを探していた。

 

僕も、その一人だった。

 

何人かのプロフィールを眺めているうちに、一人の女性のページで指が止まった。

 

四十歳。既婚。子どもはいない。

 

写真は掲載されていない。判断材料は年齢とプロフィールだけだった。丁寧な文章か、不自然な癖はないか。その程度しか分からない。

 

男性は片っ端から「いいね」を送る。返ってきたら運がいい。ちなみに、僕はプロフィールの年収を実際より低く書いていた。お金目当てだけで近づいてくる女性は、避けたかった。

 

彼女の自己紹介には、こう書かれていた。

 

《おしゃれをして出かけるきっかけになるような方と出会えたら嬉しいです。読書、美術館、散歩が好きです。家庭を大切にしながら、穏やかにお話しできる方を希望しています》

 

そして、

 

《家庭はうまくいっています。》

 

とも書かれていた。

 

その一文に、僕はかえって安心した。

 

家庭に不満がある女性より、後腐れがない。

 

そんなふうに思ったのだ。

 

今にして思えば、ずいぶん都合のいい解釈だった。

 

 

僕は短いメッセージを送った。

 

《プロフィールを拝見しました。私も読書と美術館が好きです。最近は何を読んでいますか。》

 

送信すると、すぐ画面を閉じた。

 

返事を待っていると思われたくなかった。

 

相手には分かるはずもないのに、そんな小さな見栄を張った。

 

 

翌朝、目を覚ますと返信が届いていた。

 

《丁寧なメッセージをありがとうございます。今は明治時代の小説を読んでいます。少し古い文章ですが、人間の考えることは今もあまり変わらないのだなと思いながら読んでいます。》

 

文章は整っていた。

 

記号や絵文字を多用せず、言葉の選び方にも品があった。

 

何度かやり取りをしたあと、彼女が尋ねた。

 

《お名前は、何とお呼びすればよいですか。》

 

僕はサイトで使っている名前を伝えた。

 

彼女は、自分をサチコと名乗った。

 

大阪府内に住み、仕事は派遣社員。夫は会社員。

それ以上のことは、お互いに尋ねなかった。

 

 

数日後、心斎橋でランチをすることになった。

 

待ち合わせ場所は、御堂筋沿いのホテルのロビー。

 

人目が多く、初対面でも不自然ではない。もし相手が好みでなくても、短い食事だけで帰れる。

 

そんな打算を働かせながら店を予約した。

 

待ち合わせの日。

 

大きな契約は、まだ決まっていなかった。

 

それでも僕の心は、仕事とは別の理由で高鳴っていた。

 

妻には、取引先と昼食をとると言った。

 

完全な嘘ではない。

 

午後には本当に取引先との打ち合わせが入っていた。

 

ただ、その前に、妻の知らない女性と会うだけだった。

 

僕はいつもより時間をかけてシャツを選び、鏡の前で髪を整えた。

 

五十歳の男が、四十歳の女性にどう見られるかを気にしていた。

 

そのときの僕は、まだ知らなかった。

 

彼女にどう見られるか。

 

その問いが、やがて僕の生活の中心になっていくことを。

 

(第2話に続く)