おはようございます、マーくん日米通算200勝おめでとうございます!!本日は無敵の御曹司・長嶋一茂編なのですがまずは親父の積み残しについて…

 

エピソード
村山実とのライバル関係
1959年6月25日(木曜日)の天覧試合でサヨナラ本塁打を放った長嶋であるが、このときのサヨナラ本塁打を打たれたのが当時阪神の大卒新人であり、後に2代目ミスタータイガースと呼ばれることになる村山実であった。この天覧試合以降ふたりのライバル関係が始まったとされ、たびたびテレビなどのマスメディアでは「昭和の名勝負」などといわれることがある。1966年6月8日、村山はあと4つと迫った通算1500奪三振に際し、「1500奪三振は長嶋さんから獲る」と宣言。一方、長嶋は試合前に「バントしてでも三振はしない」と報道陣に語った。村山は5回までに3つの三振を獲り、6回表に長嶋との対戦となった。長嶋は2ストライク1ボールのカウントから4球目のフォークボールを空振り、三振。2球目と4球目に計2回スイングしたが、どちらもフルスイングで、三振を喫した4球目のスイングではヘルメットが脱げた。長嶋は試合後、「あれは打てなくても仕方ない」と語り、予告を達成したライバルへ敬意を示した。村山はその後の1969年8月1日、通算2000奪三振も長嶋から奪っている。2人は現役時代は口も利かなかったが、引退後には意気投合し、お互いに「チョーさん」「ムラさん」と呼び合う仲になった。村山の死後、長嶋は「彼(村山)は一球たりともアンフェアな球(ビーンボール)を投げなかった」と述懐している。サイン破りからサイン無しへいつ頃扱いが変わったのかは明らかにされていないが、1964年8月6日に起きた広岡達朗の試合途中帰宅事件(広岡の打席で長嶋がホームスチールを行い、それをサインプレーと勘違いした広岡が監督批判をした上に試合中にもかかわらずそのまま帰宅した事件)時以前には既に扱いが変わっていた。広岡は後に自著『監督論』で、当時あのプレーはサインプレーだったと思い込んでいたこと、以前にも長嶋がホームスチールをしていて頭にきていたことなどを語り、長嶋の特別扱いの件にも触れている。長嶋茂雄球場1985年10月から日本トライアスロン連盟の会長を務め、毎年熊本県天草で開かれていたトライアスロンの国際大会のスターターを担当していた。その縁から大会のスタート地点である本渡市(現:天草市)にある市営広瀬公園野球場を、1991年に「長嶋茂雄球場」に改称して長嶋の業績を称えることになった。更に、国民栄誉賞の受賞を記念して、佐倉市が市営岩名野球場を「長嶋茂雄記念岩名球場」とすることを発表し、2013年7月、新球場名の銘板お披露目式と、市民栄誉賞の表彰式が同地にて盛大に行われた。2017年6月4日、リニューアルオープンした「長嶋茂雄記念岩名球場」で行われた二軍の巨人・ロッテ戦始球式に背番号3で登場。長嶋ゲート1980年に巨人軍監督を辞任したが選手時代の活躍を讃え、後楽園球場が閉場となる1987年まで3番ゲートは「長嶋ゲート」と称された。また閉場の際、選手時代に巨人軍の三塁手として活躍したことから同球場の三塁ベースも寄贈されている。東京ドームとなってこのゲートの名前は一旦無くなるも、1998年に開場10周年を記念して同球場で3番ゲートは「長嶋ゲート」として復活した。
長嶋語録
会話中に「いわゆる」「ひとつの」「ややもすると」などというフレーズが入ることが多い。日本語と英語が不自然に混じった、あるいは英語にしなくてもいい部分まで英語にしてしまう「ミスターイングリッシュ」も有名(例:「失敗は成功のマザー」、鯖のことを「さかなへんにブルー」)。一説によれば、結婚後に家庭内で英語で会話していたからこのような話し方になったという。肉離れを表現した「ミートグッバイ」などの言葉もある。感覚を重視するが故に「パアーッと」「ダアーッと」「パーン」「パッ」「サッ」「タッ」「ブワァー」「ヒュッ」「キュッ」「スパーン」「ブン」「シュン」「ガッといく」などの擬音を多用するため、理解できない選手も少なくないが、引退してから長嶋の指導の意味が理解出来たと話す選手もいる。これらの長嶋の独特なキャラクターはものまねの対象になりやすく、多くのお笑い芸人が長嶋のものまねをレパートリーに加えている。王の一本足打法を「フラミンゴ」と言う。「松井君にはもっとオーロラを出してほしい」「監督の言うことを聞いちゃだめじゃないか」「目に入る範囲がストライクゾーン」名球会でオーストラリアに行き、日系企業の赤井電機が協賛していた野球チームを指導した。ユニフォームにチーム名が「AKAI」と書かれているが、長嶋は1選手に「きみAKAI君かぁ。君も赤井君かぁ?赤井君多いな」と言い、周囲から「あのAKAIというチームなんですけど」と教えられ、恥ずかしかった長嶋は「ん?高木(守道)代われ」と逃げ出した。大久保博元は長嶋から「鯖という字は魚へんにブルー」と教えられた。また重言を多用したことでも知られる。代表的なものに「疲労の疲れ」「体力の力」「秋の秋季キャンプ」「状態の良い状態」「お昼のランチタイム」「大変身はイメージチェンジ」
その他
一茂が小学生の頃、神宮球場でのヤクルトスワローズ戦に連れて行ったが、試合後、連れてきた一茂を球場に置き去りにして帰ってしまい、帰宅後、妻に「一茂は?」聞かれ、「あ、忘れた」と気が付き、慌てて神宮球場に電話をしたところ、一茂は審判室に保護されていたというエピソードが有名だが、大久保博元が中畑清との対談で、一茂から「1回、2回じゃないよ。何回もあるよ」と、長嶋は球場に連れて行った一茂を何回も球場に置き去りにしていた。2002年8月7日に「長女の三奈と写真を撮らせろ!いないのか!」などと言って家政婦を脅した刃物を持った男が自宅に乱入し、長嶋は着替えて来るから待っていてと、対応した。男は逃走してしまった。成田空港問題を抱えていた地域に近い佐倉の出身である長嶋は、成田空港周辺で花と緑に囲まれた社会づくりを推進する「花と緑の農芸財団」の設立に協力した。江本孟紀によれば、長嶋は単に名義を財団に貸しただけでなく、実際に新東京国際空港公団総裁の要請を受けて三里塚芝山連合空港反対同盟と空港公団の話し合いに何度も参加して反対派の重要人物との和解へ導いたという。第2次監督時代のとある試合で、ネクストバッターサークルに大久保選手が代打の準備をしている際に、長嶋が「代打大久保」を間違えて「代打元木」と審判に伝えてしまう。大急ぎで出て行った元木選手はその試合の決勝適時打を放つ活躍をした。しかし、長嶋は試合後のインタビューで「広沢よく打ったねー」と関係のない広沢選手に感心した。1996年の春季キャンプ中の2月20日、にTVカメラが回っている中でブルペンの一角に報道陣が集まり、赤いちゃんちゃんこを着て還暦祝いを行ったが、この時「初めて還暦を迎えたわけで…」と迷言を残した。2015年、伊豆の国市に、「読売巨人軍長嶋茂雄ロード」と「読売巨人軍長嶋茂雄ランニングロード」が誕生する。山口県周南市に存在する人間魚雷回天の資料などを展示する『回天記念館』の敷地内には、長嶋茂雄が揮毫した英霊鎮魂の碑が建立されている。2016年12月、出身地である佐倉市臼井に、長嶋と雷電爲右エ門(夫人が佐倉市出身)を題材にしたねぶたがお披露目された。このねぶたは、毎年8月に佐倉市臼井で行われる「臼井ふるさとにぎわい祭り」に、柏ねぶたと共に運行される。巨人の選手では、堀内恒夫・篠塚和典・元木大介の仲人を務めている。長嶋をモチーフにした楽曲「栄光の男」を発表した桑田佳祐(サザンオールスターズ)を始めとして、大友康平・大和田伸也・大瀧詠一・ビートたけし・田母神俊雄・テリー伊藤・水谷豊・関根勤・松本潤など長嶋を敬愛する著名人も多い。
現役を引退した当日、長嶋家はいつもと変わらぬ1日であったという。妻・亜希子へは球場に来るよう誘ったが、亜希子は「取り乱すから」との理由で断った。また、長男・一茂は引退試合のこと自体を知らず、試合を一切見ていない。当初長嶋は一茂に引退のことは告げずに始球式担当を持ちかけたが、事情を何も知らない一茂は「始球式でストライクが入らなかったら恥ずかしい」との理由で拒否した。当日の引退セレモニーの時間に一茂は歯科医にかかっていて、そこの女性歯科衛生士から初めて長嶋の引退を知らされたという。野村克也からは長年にわたって監督としての力量を批判されることが多く、野村は、長嶋は監督の器ではないと晩年にも発言している。
現役時代のプレースタイルについてデータ軽視の「カンピュータ野球」と評されることもあるが、元広島東洋カープの山本一義によれば、対戦相手の配球データをノートにまとめたものを確認してから試合に臨むのが長嶋のルーティーンだった。第2次政権時にスコアラーとして仕えた三井康浩も、長嶋が球場入りすると「まず監督室にスコアラーを呼び、30 - 40分ほど先発の予想と対策について話をした」「(長嶋も)独自にデータを集めていて、質問に答えられないと『お前そんなことも調べてないの?』となじられた」と証言している。スイカを三角にカットして上の部分だけ食べる。バナナを一口食べてゴミ箱に捨てるなどのかなりの偏食家であった。



長嶋 一茂(ながしま かずしげ、1966年1月26日 - )は、日本のタレント、スポーツキャスター、野球評論家、俳優、空手家、元プロ野球選手(内野手)、元読売ジャイアンツ野球振興アドバイザー。カトリック教徒で、洗礼名は「パウロ」[1]。

人物
東京都大田区田園調布出身。ナガシマ企画所属。父は元プロ野球選手・監督の長嶋茂雄、母は元実業家の長嶋亜希子。4人兄弟姉妹の長男(第一子)。弟は元レーシングドライバーの長島正興、次妹はキャスターの長島三奈。自身と三奈の間に一般人の妹がもう一人いる。

経歴
プロ入り以前
小学生の頃から野球を始めたが、ピッチャーをしていた小学生の時に変化球を投げすぎて肘を負傷している。巨人入りする前に肘の手術をしたが、引退後にネクタイが結べなくなったことから再度肘の手術をしており、現在も肘を伸ばせず、腕が真っ直ぐに伸びない。小学校5、6年生の時に周囲からは「長嶋茂雄の息子が入ってきた」などと騒がれ、リトルリーグにテレビカメラが来たこともあった。大人たちは自分のチームのプロモーションができて嬉しかったようだが、300人から400人の子供が入団したことから一度野球を辞めている。親の方針で、群馬県吾妻郡六合村(現:中之条町)にある白根開善学校中等部(全寮制)に入学し陸上部に所属、2年から田園調布中学校に通い、陸上大会の時だけ陸上部に所属。高校受験では桐蔭学園高等学校にも合格したが「父親と同じ立教で野球をやりたい」と、立教高等学校(現:立教新座高等学校)に進学した。高校で野球部に入ったものの、ずっと野球をやっていなかったためキャッチボールもできなかった[2][3]など、ブランクのため苦労したが、2年の秋には4番打者を務めるほどにまで成長した。3年生時の1983年春季関東大会県予選準々決勝に進むが上尾高に惜敗する。同年夏の甲子園県予選も準決勝まで進出したが、所沢商に延長10回0-1で敗北を喫した[3]。

卒業後は立教大学に進学し、硬式野球部では1年生時からレギュラーとなる。東京六大学野球リーグにおいて当時の立教大学は低迷が続き、1966年春季リーグ以降は優勝から遠ざかっていた。4年生時の1987年春季リーグでは、四番打者、主将として打率.340を記録し、満票でベストナイン(三塁手)に選出される。同年秋季リーグでは4本塁打、16打点(秋季リーグ打点王)を叩き出し、二期連続ベストナインに選出された[4]。同季は法政大学と最後まで優勝を争うが2位に終わる。同年の第16回日米大学野球選手権大会の日本代表にも選ばれている[3][注 1]。リーグ通算101試合出場、382打数86安打、打率.225、11本塁打、54打点を記録する。高校・大学の一年後輩に矢作公一がおり、日米大学野球にも揃って出場している。また、1987年アジア野球選手権大会にも代表にも選出される。

在学中に授業には1度も出席したことがなく、野球部寮とグラウンドの往復で4年間過ごしたと語っていた。

1987年のドラフト会議でヤクルトスワローズ、横浜大洋ホエールズの2球団が1位指名で競合し、抽選の結果ヤクルトが交渉権を獲得した。後に契約金8000万円、年俸840万円(金額は推定)で入団合意した[6]。ドラフト前日まで巨人も1位指名を検討したものの結局回避した[7]。当時ヤクルトの監督だった関根潤三は著書の中で「一茂のドラフト指名は僕の意向が強く働いた。六大学リーグでプレーする一茂を見に行って粗削りだけどものはいい。こりゃ素晴らしいプレーヤーになると思った」と記している[8]。横浜大洋は1980年代に父・長嶋茂雄の監督就任に熱心だったこともあり指名したという[9]。父・長嶋茂雄は、育成の確かな広島東洋カープを勧めていたが、本人が「映画で見るようなヤクザの場所みたいで怖そう」という理由から難色を示したという[10][11][12][13]。なお、西武ライオンズも指名の意思を表明していたが、これは大学進学を表明していた鈴木健を指名するためのカモフラージュであった。

ヤクルト時代
1988年、春季キャンプから一軍メンバーに選出される[14]。オープン戦で3割以上の打率を残した。オープン戦で対戦した投手には村田兆治もおり、現役晩年でありながらも不屈の闘志を感じた長嶋はよく覚えていると言っている[15]。4月27日の神宮球場での巨人戦では、ビル・ガリクソンから、プロ初安打を本塁打で飾り、『ミスター二世』として注目を集めた。しかし、本人は開幕後に相手投手の攻め方が変わったことでプロの壁を痛感しており、1年目の4月で限界を悟ったという[16]。球団は1989年オフ、関根潤三の後任として父・茂雄に監督就任を要請をするが、茂雄は家族の反対もあり辞退、野村克也が監督に就任した[17]。

野村が監督に就任した1990年は野村の提唱するID野球にまったく馴染めず、ミーティングでも一茂はノートに漫画を描いていた[18]。これは、野村がミーティングで長嶋茂雄批判をすることがあったことが理由である[19]。当時、監督やコーチはもちろん、OB、評論家どころかカメラマンからも助言や指導をされ「助言のフォアグラ状態」になり、誰の指導や助言にも耳を傾けることができないでいたと一茂本人が語っている[18]。なお、一茂は野村ではなくコーチ陣に対して不満があったとのこと[3]。1991年は、6月初旬からスタメンで起用されると、6月9日の広島戦では3安打5打点の活躍をし、その試合を皮切りにチームが球団新記録の12連勝をした。この12試合中の一茂の成績は、打率.282、2本塁打14打点OPS.934の成績を残し、ついに開花したと言われた。しかし、13連勝を狙った6月26日の巨人戦では、3点リードの9回裏にまずい守備を連発して逆転サヨナラ負けを喫したため、スポーツ紙では、「長嶋に始まり長嶋で終わった12連勝」と呼ばれた。

1992年は、オープン戦途中球団にMLBのロサンゼルス・ドジャース傘下A級ベロビーチ・ドジャース(英語版)に野球留学を直訴し、承諾され開幕直前の4月1日に渡米。9月4日に帰国し、9月6日チームに合流したが一軍への昇格は無くプロ入り初の一軍出場機会無しとなり、チームの14年ぶりの優勝には貢献できなかった。後に「報道ステーション」2008年5月27日放送分(テレビ朝日)の中で野村と対談し、「お前(ミーティング中に)漫画描いてたじゃないか」と冗談混じりながら当時の行動について指摘されている。また関根は「しかし結局選手として大成させられなかった。今でももう少し育てようがあったんじゃねぇかって思う。例えば僕のそばに置いてもっとシゴいたほうが良かったかもしれない。バッティングコーチも長嶋茂雄の息子だって言うんで遠慮あっただろう。それも含めて一茂を一人前にできなかったのは僕の責任。中途半端な育て方しかできなかった。」と記している[20]。伊勢孝夫打撃コーチは一茂が伸び悩んだ要因の一つに、勝手に打撃フォームを弄って短期間で放り出す評論家の存在を挙げており[21][22]、一茂自身も余りに多すぎる周囲の助言にノイローゼ状態だったと告白している[18]。オフに入ると千葉ロッテマリーンズ、福岡ダイエーホークス、横浜大洋ホエールズからトレードの打診が球団に寄せられた[23]。

巨人時代
1993年、父・茂雄が監督に就任した読売ジャイアンツへ金銭トレードで移籍する[24]。茂雄は「一茂は実力を出し切っていない。巨人は右打者が足りていないので」[25]と獲得した理由を説明した。当時のヤクルト監督・野村克也は、「一茂は怖がりでどうしようもないから、父親の元でするのが一番と球団社長に提案してトレードに出した」と後に明かしている[26]。キャンプから外野の練習を行いオープン戦でも打撃で結果を残し開幕戦は6番・レフトでスタメンを勝ち取る。4月23日甲子園で行われた対阪神一回戦では移籍1号の本塁打がセ・リーグ通算3万号本塁打となり試合でも3安打と活躍[27]。同年の古巣ヤクルト戦では、原辰徳との守備交代で、「4番、サード長嶋」がコールされた。しかし、オープン戦での好調とは打って変わり、打撃不振に苦しみ更にこの年には肘や膝を痛め、9月には手術をしている[28]。

1994年は、レギュラーシーズンは46試合に出場した。9月7日の横浜戦では同点の場面で原辰徳の代わりに代打で出場し[29]、原は「週刊現代」95年2月18日号のインタビューで「一茂を代打に出されたときはどうだったかって? そりゃ悔しかったよ! 「なにィ!?」「ふざけんな」って感じだったね。そういう気持ちを持ってないと、野球選手なんてやってられないんだよ」[30]と述べている。同年の日本シリーズはベンチメンバーのみであり、試合に出場することは無かった。5月10日、対ヤクルト戦 8回裏、ヤクルトの飯田哲也が放ったショートへの打球を巨人の遊撃手・川相昌弘が捕球後、三塁手・長嶋一茂に送球し、走者の野口寿浩にタッチしたが、セーフ判定。一茂はこの判定に不服として、即座に三塁塁審・橘高淳を押したため、暴力行為で退場が宣告される。ちなみに橘高が初めて退場処分を下した試合である。

1995年は右肘の負傷によって一軍出場はゼロに終わる。1996年は春先は不振のジェフ・マントがスタメンを外されると積極的に起用され、低打率ながら3本塁打を記録する。しかし、当時の一軍総合守備コーチの土井正三から一茂だけが2時間のバント練習を課されたことに対して「何様だよ、あいつ」「あんな奴いらねえよ」などと暴言を吐き、球団から罰金50万円と二軍降格に加え、出場停止処分を受けた[31][32]。同年オフ、父・茂雄から「一茂、残念だけどお前は翌年の戦力構想に入っていない」と戦力外通告を受けた[28]。その後、他球団が獲得の意向を見せたが、「これ以上迷惑をかけたくない」と発言し現役を引退する。引退について父・茂雄は「プロの世界だって1年限りの世界ですから」と発言した(「監督と選手の関係から親子の関係に戻ろう」とも発言していた)。

現役引退後
現役引退後は個人事務所「ナガシマ企画」を設立し、タレントに転身する。戦力外を通告される年、偶然にも明石家さんまとゴルフをする機会があった[33]。まさか引退がつきつけられるとは思ってもみなかった一茂は、さんまからその時に「辞めたら俺がやってる番組全部来いや」と言われても真剣に受けとめることができなかったが、現役を退いた後、その言葉通りさんまのすべてのレギュラー番組で出演オファーを受け、出演した[33][34]。さんまのことを大恩人と語っている[33]。またスポーツキャスターとなり、1997年〜1999年にフジテレビの『プロ野球ニュース』(週末)、2000年〜2002年に日本テレビの『独占!!スポーツ情報』(のちの『THE独占サンデー』)の司会を担当した。プロ野球ニュース担当時代には当時流行していたサントリーボスのCMのパロディーで「親が凄いと子供も凄いんだよな、な」と問いかけられて「なに?」と答えるという自虐ネタを演じたこともあった。

1999年、当時の担当マネージャーだった女性と結婚[35]。

2002年から2年間にわたってNHKのインタビュー番組『わたしはあきらめない!』の聞き手役も務めた。

スポーツキャスターと並行して俳優業も行い、2000年は『NHK朝の連続テレビ小説・オードリー』に出演し、俳優としての地歩を固める。同作品では、長嶋本人とは正反対の天涯孤独で無口な時代劇の剣士を演じ、本放送時に加えて2024年の再放送時にも話題となった[36]。2002年は映画『ミスター・ルーキー』(日本アカデミー賞新人賞受賞)、2005年には『男たちの大和/YAMATO』、2004年は、TBSの『サラリーマン金太郎4』[注 2]、テレビ朝日の『逮捕しちゃうぞ』、2005年の『NHK大河ドラマ・義経』等に出演。

『さんまのSUPERからくりTV』(TBS)ではレギュラー解答者のほか、『知識の泉』のコーナーに出演。西村知美、松嶋尚美、浅田美代子らと共に天然ボケを活かし爆笑トークを展開していた。2004年、『さんまのSUPERからくりTV』の中で打倒・松岡修造を目的にさんまらによって結成された『からくりテニス同好会』のメンバーに加入。同番組には特に思い入れが強いようで、バラエティのイロハをそこで教わったとのこと[33]。さんまに時には収録中に怒られることもあり、最も激怒されたのが収録中に寝たことだった[33]。

2004年4月、田中律子、磯野貴理子とともにTBSのお昼の生放送番組『はぴひる!』の総合司会を務める。6月6日、アテネオリンピックの聖火走者を務める。同年、日本テレビのアテネオリンピック中継のキャスターに選ばれた。また、2004年6月に双子の女児が誕生した。このことは、本人が総合司会を務める昼のテレビ番組の中で本人の口により発表された。

2005年1月1日より当時球団会長渡邉恒雄の推薦で読売新聞グループ本社社長室付けスポーツアドバイザー、並びに巨人球団代表特別補佐(アドバイザー)として招聘され、2011年1月1日まで務め、同日付で野球振興アドバイザーに就任した[37]。その後、2016年にはアドバイザーを終了していることが報じられた[38][39]。スポーツキャスターや芸能活動は以降も継続している。また、この年には清原和博が戦力外通告を受けた時に接触したことを清原の逮捕後に明かしている。なお、清原が逮捕前に出演した「ワイドナショー」では共演したことがある[40]。

2006年、三菱UFJ信託銀行のCMに父・茂雄との親子共演を果たした。

2013年、クラシアンのCMにイメージキャラクターとして抜擢された。

極真空手
プロ野球を引退した翌年の1997年に極真会館(東京城西世田谷東支部)に入門し、黒帯を取得した。1999年3月、数見肇の百人組手の40人目の対戦者を務めたこともある。その経験から、フジテレビのK-1中継の司会を務めていた。

2018年11月、極真空手の公式大会、「全関東空手道選手権大会」に出場し、50歳以上+80キロ以上の部で優勝した。

2019年4月20日、極真空手の国際親善空手道選手権大会に「50歳以上、80キロ超級」の階級で出場し、銅メダルを獲得した[41]。

2021年7月25日、極真空手の東日本空手道選手権大会に「50歳以上+80kg級」で出場し、金メダルを獲得した。

2022年11月19日、2022国際親善空手道選手権大会に出場し、「50歳以上男子+80kg級」の部で銀メダルを獲得した。

エピソード
プロ入り前
小学生の頃、神宮球場でのヤクルト-巨人戦を父・茂雄と一緒に見に行ったのだが、茂雄は連れてきた一茂を球場に置き去りにして帰ってしまった。茂雄は家に帰って妻に言われ、初めて気が付いたという。茂雄は慌てて神宮球場に電話をしたところ、一茂は審判室に保護されていた。なお、大久保博元は中畑清との対談で、一茂から「1回、2回じゃないよ。何回もあるよ」と何度も置き去りにされたと聞かされたと証言した[42]。
父・茂雄の引退試合(1974年10月14日の巨人-中日ドラゴンズ戦)は観ていなかった。茂雄は一茂に引退するとは告げずに「始球式をやってみないか」と持ちかけたが、父の引退試合だとは知らない一茂は「恥ずかしい」と拒否し、当日は歯科医にかかっていた。治療中に歯科助手の女性から聞かされるまで、父の引退を知らなかった[43]。
父・茂雄が、巨人の第1次監督就任時には背番号90を付けていたが、一茂の「背番号3・3番打者・サード(三塁手)」で足して9という発言がもとになっている。
高校時代は野球一筋であり、全く勉強せず、カンニングも頻繁に行っていた。「ボクも基本的に期末とか中間はカンニングしましたからね。だって、野球ばっかりやってたから試験勉強やる時間ないもん、オレ」と語っている[44]。
プロ選手時代
1988年4月27日の巨人戦でガリクソンからプロ初本塁打を放つ。試合はヤクルトは敗戦。しかし、チームが敗れたなか異例となるヒーローインタビューを試合後に受けた[45]。
プロ初本塁打は、実はまぐれ当たりであり、自身の著書「三流」[要ページ番号]では「入団直後からプロのスピードについて行けず、どうしようかと思った」「それこそガリクソンの球も全然見えなくて、適当に振った」と書かれている。
達川光男がプロ初本塁打を見て、試合中打席に入った一茂に「あそこのコース得意なんか?それなら、1回同じコース投げさせてみようかのお」と言い、本当に投手にそのコースを投げさせた。すると一茂は本塁打性の大ファウルを放ち、肝を冷やしている達川に「もう1回お願いしますよ」と無邪気にせがんだ。達川は平静を装いつつ「1回と言ったら1回だ」と一喝し、以来そのコースは一茂に対して封印した。
1988年のシーズンオフに「プロ野球ニュース」で「がんばれカズシゲ」というコーナーがあった。
1991年のある試合で変化球を本塁打にして放った際、野村克也に褒められた後、「次は直球を(慎重に)狙え」とアドバイスされたが、次の打席では直球を強振し、空振り三振に終わった。そのことを現役引退後に野村との対談で話した際「お前は褒めるとろくなことがない」と言われた。ヤクルト在籍時の一茂は、野村の指導やミーティングがほとんど理解できなかったが、タレント転身後の仕事でようやくその意味を実感し、理解できたという。
1992年に野球留学をしていた際、彼のさまざまな世話をしていたアイク生原が死去。留学時期は違えど同じ生原門下生である山本昌(当時は本名の山本昌広)らと共に葬儀に参列した。
1993年4月23日の阪神-巨人戦で仲田幸司投手からセ・リーグ通算3万号となる記念本塁打を放つ。
元々は、池山隆寛に「いいグローブ使ってんだね。何で捕れないの?」と馬鹿にされるほど守備に難のある選手だったが、野球留学を機に守備力が向上し、巨人移籍後には槙原が一茂の守備は上手かったと評するまでになった。また、橘高淳審判も巨人時代の守備は強肩でスローイングが安定し、同時代の三塁手の中でも高い水準にあったと評している[46]。
『ドカベン』などの野球漫画の第一人者である水島新司が1987年から連載していた『虹を呼ぶ男』では、舞台となっていたヤクルトに偶然一茂が入団したため、主人公の七夕竹之丞のライバルとして劇中に登場することになったが、現実の一茂の不振もあって人気は低迷し、後に相撲漫画に路線変更する事態となっている。
引退後のテレビ番組で、ヤクルト時代の監督の野村に、守備やバッティング時にボールを怖がり腰が引けると評された[26]。
プロでは成績は残せなかったものの、「父親譲りのバッティング」と才能を評価する声はあり[47]、そのことを如実に示す例として、落合は後の対談で一茂に対して「本当に練習しなかった、していたら父親を超えていた。」と直接述べている[48]。また、野村からは「いい物を持っているため練習では良かった。」とも認められており[26]、数多くの著書でもそういった評価をしていたことが書かれてある。ヤクルト時代の同僚たちは、一茂の才能や飛距離を評価していたという[49][50][51]。
プロ時代はケガ以外では病気で悩まされることも多く、ヤクルト時代には痛風になったことがあり[52]、一茂はこのことに関しては「食べ過ぎが原因だった」と後に語っている[53]。また、巨人時代にはパニック障害になったことを後に告白しており[54]、プロ野球選手として活躍していた頃にバッターボックスに立てなくなったこと、以降も同病に悩まされていることを自著でも述べている[55]。その後、この症状はまだ寛解していないことを2018年に語っている[56]。
2018年12月29日から放映されていた富士フイルムのテレビCM「お正月を写そう♪2019 それぞれのウォールデコ」篇[57]のCM内では1993年に甲子園でセ・リーグ通算3万号本塁打を打った際の写真が使用された。
2024年10月4日放送の『ザワつく!金曜日』では、1988年のプロ野球選手写真名鑑が紹介され、一茂の理想のタイプの女性の欄に「健康的で明るい女性 鈴木保奈美」と書かれていたことが明かされた。一茂はプロ1年目にホリプロの知り合いのつてで鈴木をクラブハウスに読んでもらいいたく感激したこと、鈴木のカネボウのキャンペーンガールとしての水着の写真を薬局の景品に3枚から4枚程度集めたことを明かしている[58]。
タレント転身後
『孤独のグルメ』ドラマ化が企画された際に、高身長を買われて主演に予定されていたが、原作者の久住昌之が「長嶋一茂は嫌いではありませんが、ちょっと」と難色を示したために話が流れている[59][60][61]。
タレント転身後から、バラエティ番組、ドラマ、コメンテーターなど幅広く活動してきたが、2018年に入り出演番組が急増し、「ブレイクしたタレント」の仲間入りを果たしている[62][63]。
3歳の頃から気に入っているハワイを頻繁に訪問、現地に一軒家を所有し、2018年だけでも仕事の合間に年6回滞在しており、将来的に「半年ハワイ、半年東京と両方」という移住プランも行っている[64]。長嶋と共演歴の長い羽鳥慎一曰く、ハワイに何度も行く理由は子供のためでもあるとのこと[65]。
自身がテレビ出演時には父を語る時でも父・茂雄の写真や映像は一切出てこないが、これに関しては妹・三奈が代表を務める管理会社『オフィス・エヌ』が許可を出さないためである[66][67]。このように三奈との関係は父に関する映像使用の許可が出ないほど疎遠になっているが、タレントとしては、過去に三奈が社員として在職していたテレビ朝日の番組への出演が多い。
母親の亜希子が生前に特攻隊員の慰霊に熱心だったことが縁で、2020年6月に「一角に水を使った慰霊碑を建立したい」と知覧平和公園がある鹿児島県南九州市に申し出て、平和事業のために200万円を寄付した。これを受けて、南九州市はこの寄付金とクラウドファンディングなどで募った資金を活用して、特攻隊員を慰霊する噴水を同公園に設置することを2021年8月に発表した[68]。
2024年10月11日放送の『ザワつく!金曜日』で、股関節を人工関節に置き換える手術を受けたと語った。症状はもし1ヶ月手術が遅れていれば歩けなくなる後遺症が残るところまで進行していた。病院側は有名タレントの受け入れは不慣れであったため、看護師達に敢えて一茂と喋らないように緘口令を出したとのこと[69]。
家族・親族
長嶋家
→詳細は「長嶋茂雄 § 家族・親族」を参照
祖父・利(? - 1954年)
祖母・チヨ(? - 1994年)
父・茂雄(1936年 - 。プロ野球選手・監督)
母・亜希子(1943年 - 2007年。西村光雄の娘)
長妹(一般人)
次妹・三奈(1968年 - 。スポーツキャスター、実業家)
弟・正興(1970年 - 。レーシングドライバー、環境活動家)

長女・次女(2004年 - )(双子)