聖ヨハネ福音史家は大ヤコブのご兄弟なり。

ゼベダイを父として、マリヤ サロメと申す聖母マリヤのご兄弟を御母とし給ふなり。

御主イエスキリストを深くご大切に思し召し、またイエスキリストよりも深くご大切に思し召す人なる故に、異邦人の言へる如く、子細もなく果報といふことあらば、この使徒もその分たるべし。

さりながら自然といふことはかつてなし。

ただ天主の思し召すままに、思し召す人に、思し召す時御慈悲よりご恩を与え給ふものなり。

 

 このご寵愛のみ弟子に対せられて、天主の御慈悲深きと見え給ふなり。

この使徒には色々のご特権を与え給ふなり。

一つには、内々のご秘書となし給ふこと。

 

 二つには、ほかの大臣ともなし給ふなり。

その故はほかのキリストの使徒達とは違って深い思想を持った神学者であったということ。

 

 三つには、会計係になし給ふこと。

その故は天下無双の至宝にてまします尊き聖母マリヤをキリストの御受難の御時渡し給ふなり。

然れどもこの使徒をば処女マリヤに選び給ひ、処女マリヤに届き給へば、余の使徒よりもご大切に思し召すなり。

 

 聖ヒエロニムス((342-420)聖書のラテン語への翻訳)宣う如く、御主のご上天の以後この使徒 聖母マリヤの死し給ふまで御傍を離れ給はぬなり。

その後はアジヤといふ国へ御弘めのために到り給ふなり。

そこにおいて数多の人をキリシタンになし、数多のエクレシアを建て給ふなり。

 

 然るところにロ-マ皇帝ドミティアヌス(81-96)といふその時代の悪王使徒の御誉れを聞いて、ロ-マへ召し上せ奉り、ラティナ(カラカラ浴場から南東にのびるラティナ街道にある門の名)といふ門の端にて湯が沸き立つ油のなかへ入れ奉るなり。

然れども尊き使徒の骨と肉と腐ることなきが如く、少しも痛みなく器のなかより出で給ふものなり。

ロ-マ皇帝ドミティアヌス これほどまでに責め苛むことを望んだが、聖ヨハネは談義をも止め給はぬことを見て、パトモス島(小アジアのリュディア地方のミレトスの沖合い、95-96年、聖ヨハネはここに流されていた)といふ島へ流し奉るなり。

その所にただ一年ましまして、御主顕はし給ふヨハネの黙示録の啓示書き給ふなり。

その年にロ-マ皇帝ドミティアヌス殺害せられたるによつて、悪王の政道をばローマの元老院より翻すが故に、この使徒もまた大きなるご威勢を以て元の所のエフェソへ帰り給ふなり。

その在所に近付き給ふ折節、数多の人々御迎えに出で、御主のみ名を以て来たり給ふ御人尊まれ給へと歌ひたるものなり。

 

 その在所に入り給へば、ヅルジヤナ(聖ヨハネの女弟子、エフェソの住人ドゥルシアネ)といふ聖ヨハネのみ弟子なる善女死去せられけるを取り納めるために、棺に入れて埋めるところに行き合い給へば、後家孤子(みなしご)ども使徒を見奉りて、如何にイエスキリストの使徒、ご異見の如く我らを育み給ふヅルジヤナ死し給ふを送り奉るために罷り出でたり。

彼の人は御身を今一度見奉りきとの望みを以て死し給へば、少し今生きてましまさば御目に掛かり給ひて、如何ばかり嬉しがり給ふべきものをと申し上げ、御身の御ためには蘇りし給はんことの容易くあるべしと申せば、使徒は棺を下に置け、死骸を巻きたるものを退け、自由に置けと宣ひて、如何にヅルジヤナ、御主イエスキリスト汝を蘇し給ふぞ、立ち上がり、汝のもとに帰れ、わがために食事を用意しなさい。と宣へば、寝たる者を起こす如くに蘇りて使徒の宣う如く、せられたるなり。

 

 この尊き使徒御談義のためにエフェソ(ローマ帝国小アジア地方の首都)を始めとして、大略アジヤをみなキリシタンになし給へども、なおも偶像を拝む族(やから)は残りて深く歎くが故に、使徒に対して色々に悪口を申し、讒言をなし、使徒をディアナ(出産の神として昔から小アジア、特にエフェソにおいて崇敬の的になっていた)といふ偶像の堂に連れ奉り、この偶像に捧げものをなし給へと申し掛ければ、使徒彼の悪人らに二つののうち何れをなりとも定めよ、或は汝らの偶像を頼みて、我らがイエスキリストのエクレシアを崩す力あるにおいては、我もその偶像を拝むべし、もしまた我イエスキリストの御力を以て汝らの偶像の形、殿堂を崩すにおいては、我らがイエスキリストを信ぜよと宣へば、御敵らも大略この儀尤もなりと賛成して、その堂を出づるところに、使徒 祈りし給ふとともに、俄かにその堂崩れて、偶像までも残りなきを見て、イエスキリストを信じる者幾千万といふことなり。

 

 この使徒九十九歳にて死去し給ふなり。

聖イシドロス(560-636.博学のためにエンサイクロペディストといわれ、中世ロ-マの知識をゲルマン世界へ伝達した)の曰はく、イエスキリスのご受難の後六十七年のご存命なり。

御主イエスキリスト御弟子とともに見えさせられ、如何にわが親しき友だち、我に来たれ、汝の兄弟ともにわたしの国で私の食卓について飲食を共にすべしと宣ふなり。

即ち聖ヨハネ立ち上がり給へば、御主宣はく、今日より五日目は日曜日に当りぬれば、その時来たれと宣へば、その日になりて万民聖ヨハネに対し奉りて人々の営み造りたるエクレシヤへ相集まれるなり。

 

 然れば万民に長く末期の御談義をさせられ、信仰に届き、神の榮光を望んでを以て天主の戒律を保てと勧め給ひて、祭壇の傍に四方なる穴を掘らせ、その掘りたる土をばエクレシヤの外(ほか)に捨てさせ、その穴に入り給ひ、御手を広げ給ひて、如何に御主イエスキリスト、我を御招宴のために召させ、尊き料理を下されんと思し召すこと尋(かたじけな)く存じて参るなり。

我御身に力の及ぶほど添い届き奉らんと願ひ奉ることをば知ろし召すと申し終わり給ふとともに、使徒の御上に大光明輝き下り、誰も見奉ること叶わずして、その光の消えるとともに、その穴の中には何も残らず、ただ如何にも細かなる砂(いさご)湧き上げるのみなり。

今もその真砂は湧くるとぞ聞く。

 

 聖ヒエロニムス宣はく、骨肉の望みに堅く勝ち給ふ如く、死苦をも従へ給ひ、終わり給ふなり。

この使徒死し給ふについて色々の説あり、人によって死し給はず、世の終わりに反キリストにともに敵対はせ給ふべきために、エリヤ(死ぬことなく天に昇ったと考えられている、いつかはイスラエルの栄光を再興するために地上に再び現れるであろうと信じられている。)、エノク(死ぬことなしに天に上げられたと考えられている、)とともに天の楽園へ移し置き給ふとも言へり、

これはテオフィルス(2世紀のギリシアの護教家。)の学匠の説なり。

 

 また別の人はこの使徒は死し給はずして、御主イエスキリストの公審判の来たり給ふまで、その穴に寝入りたる如くにしてましますとも言へり。

聖アウグスティヌスは、これは不可なりと宣ふなり。

 

 また人によつて真(まこと)に死し給ひて色身靈魂ともに天国に到り給ひて、今に御主イエスキリストともによろこびを受け給ふと言へり。

 

 聖トマス・アクイナス(1225-74)の宣ふ如く、これなほ真実の信ずべき説なり。

 

 また聖ヒエロニムス 聖母マリヤのご上天の談義をし給ふ次に、この分宣ふなり。

同じく心ゆべし、この使徒を(教会では殉教者や聖人の記念日を祝日として祝うが、その祝日は彼らの起天日とされる。彼らが生涯を通して信仰を貫いた者として、キリストに倣い、その死を復活に結び付け、また帰天日が「誕生の日」とみなされてるからである)祝い給ふ日は御死日にはあらず。

その日は六月二十四日は聖ヨハネ福音史家のご誕生の日なり。

かるが故にエクレシヤよりこのご誕生の日を祝い給はんために、イエスキリストご誕生より三日目に替り給ふなり。

この尊き使徒は余の使徒みな死して後、その終りに九十九歳にして死し給ふなり。

皇帝はロ-マ皇帝トラヤヌス(98-117)の御代なり。

御父、聖靈とともに長く榮え給ひ、ご進退なさるるイエスキリストに対し奉りて終わりぬ。