十月五日

 『シラスとテモテとマケドニヤより来りて後はパウロ専ら御言を宣ることに力め・・・』(使徒行伝、十八ノ五)

 恐ろしい程悪い譯である。

元譯に『シラスとテモテ、マケドニヤより下りたる時パウロ・・・・・道を傳ふることに凝し居れり』とある方が遥かに勝つてゐる。

私が始めて此の改譯を讀んだ時に受けた印象は、シラスとテモテとが来た後はテント製造をやめて『専ら御言を宣べ』たといふ意味かとさへ思つた。

『後は』の譯が目立つて悪い。

『後』ではないシラスとテモテがコリントに来た時に、彼らが見出だしたパウロは『心を凝して傳道してゐる』姿であつたと言ふのである。

實は『道を傳ふることに心を凝し』の譯でさへまだ足りないのである。

私は『御言に没頭し居れり』と譯すか或は『御言に没頭し居れり』と譯すか或は『御言に心を奪はれ居れり』と譯す可きだと思ふ。

彼の心が他の事に對してはうつろになつたと見える程『御言』に熱中してゐたのである。

どうか一日でもよいから私共も『御言』の研究に、又其の宣傳に、斯くまで『心を奪はれ』たいものである。

  (祈禱)神様、私が『御言』を讀む時に小説を讀むほどの興味さはも起らない事も多くあります。どうか之を讀むときに『心を奪はれ』之を傳へるときに我を忘れるほどに没頭させて下さい。アーメン