五月十八日

 『使徒たちは御名のために辱しめらるるに相応しき者とせられたるを喜びつつ議員らの前を出でされり』(使徒行伝、五ノ四十一)

 忍びつつではない『喜びつつ』である。

あの恐ろしい『鞭ち』を受けて、忍ぶだけでも容易でない。

然るに『喜びつつ』とは實に聖霊の御恩寵が其の心に満ちてゐる証拠と見られる。

主イエスお十字架につけられる前に此の『鞭ち』を受けたのであるから、使徒等は多分それを思ひ出して嬉しく感じたのであらう。

ああ私共は何といふ狡い者どもであらう。

主イエスの十字架を有難くは思ってゐるが、主と同じく十字架を負ひたいといふ心を、どれ程もつてゐるだらう。

ともすれば十字架を忘れて、唯だ安逸を貪る心に安んじてゐるではないか。

日本全国のクリスチャンが若し此の使徒たちの心を持ったならば、我国が神の國となるのは期して待つべきである。

今日の我々のやうに唯だ自己のすくひに安んずるやうでは、百年河清を待つに等しい。

  (祈禱) あゝ神よ、汝の苦痛の愛を示し、汝の十字架を甘しとする心を我に與へ給へ。願くは聖きみたまを我に降し、昔の聖徒の如く、御名の為に苦しむ事を喜ぶ者とならせ給へ。ア-メン