五月十六日
『されば今なんぢらに言ふ、この人々より離れて、その為すに任せよ、若しその企画その所作、人より出でたらんには自から壊れん。もし神より出でたらんには彼らを壊ること能はず、恐らくは汝ら神に敵する者とならん』(再出)
或人は批評してガマリエルは卑怯者でズルい。
議会は此の種の企画が『人よりか、神よりか』を審議する所ではないか。
然るに『もし・・・・・』『もし・・・・・・』で之を回避したのはズルイ、彼には誠意が足りない、と言ふ。
私は思ふ、之は難きを人に強ふるものだと。
使徒等の弁論が餘に露骨なので殺気立った議会を沈静せしむるに此れ以上の事は言へまい。
而已ならず曲解さへしなければ、此の説は正論である。
若き弟子のパウロには最初此の正論が気に入らなかったが、ダマスコの途上で適切に恩師の意見の正しい事を悟ったであらう。
さればこそ此の演説の大要を恩師から聞き(或は議会で傍聴してゐたと想像する学者もある)ルカに傳へて茲に記録させるに至ったのであらう。
自分と異なる意見や企画に対し我々は此の寛容を必要とする。
(祈禱)主よ、我らに寛容の心を與へ給へ。特に同じく汝を主と仰ぐ者の心より、互に争ふ教派心を取り除きて、相赦し相容れ、共に汝の名の為に戦はせ給へ。ア-メン
五月十七日
『彼等その勧告に從ひ、遂に使徒たちを呼び出して之を鞭ち、イエスの名に由りて語ることを堅く禁じて釋せり』(使徒行伝、五ノ四十)
乱暴な議会である。
ガマリエルの『勧告に從つた』ならば全く釋放すべきである。
が、『怒に満ちた』彼らには其儘で釋す事は出来なかった。
『之を鞭ち』と読んでしまへば簡単だが、此の『鞭ち』は大変なものである。
通常三本の堅い革紐のついた鞭で、脊又は足の裏を十三回も強く打って、多くの場合には肉は破れて血管又は骨が露れる。
特に此の場合は『怒に満ち』た其の鬱憤を晴らすのであるから、どんなにヒドク打つたか知れたものでない。
『イエスの名』が今日まで傳へられるには此れほどの難関を幾度も通過して来たのである事を思ふと、我々は餘りに惰弱な生活をしては居ないだらうか。
少しぐらいの犠牲や苦痛を主イエスの為に負はなければ天国でペテロ達に合はす顔があるまい。
(祈禱) 神様、私は誠に怠け者であり、卑怯者であります。少しの苦しみにも直ぐ呟きます。悲鳴を挙げます。でなければ之を吹聴します。どうか今少し昔の使徒等の苦難を思はせて下さい。ア-メン