『かれら之をききて怒に満ち、使徒たちを殺さんと思へり』(使徒行伝、五ノ丗三)
此の『怒に満ち』の語は此処と七章五十四節と聖書中に二回だけ見える文字である。
『鋸で二つに掻き切る』といふ意味で、怒り心頭より発しとか、怒髪天を衝くとか、言った形容語に似てゐる。
腹が立ってたまらない心持を指したのである。
如何に暴力を加えられても従容としてゐるガリラヤの漁夫と、面責に遇ふて心の居所を失ってしまった大祭司とは興味ある対照ではないか。
紳士的修養が何處まで成功するか。
信仰が何處まで底力を有するか、誠によい實物教訓である。
而已ならずパウロが『この人には死よりいづる馨(かおり)となりて死に至らしめ、かの人には生命よりいづる馨となりて生命に至らしむ』(コリント後二ノ十六)と言った通り、福音が率直に説かれる時、之を聞く者が、謙って信仰すれば、聖霊の賜物を受けて救はれるが、高ぶって拒絶すれば益々罪の醜状を暴露するものである。
同じ福音がペテロ達の沈着をつくり又大祭司等の狂暴をつくった。
(祈禱) 主よ、願くは福音の善き馨(かおり)の我らより出でんことを、願くは我らをして常にへりくだりて汝の苦き福音の聲にも喜びて耳を傾けしめ給はんことを。ア-メン