『爰に宮守頭、下役を伴ひて出でゆき、彼らを曳き来る。されど手暴きことをせざりき、これ民よ
り石にて打たれんことを恐れたるなり。』(使徒行伝、五ノ廿六)
石で打ち殺すのはレビ記二十章に記された公式の刑罰であるが、パレスチナは石器の発達の早か
った程に石の澤山な土地であるから、人民が激昂した場合に人を私刑にするのには大抵石で打ち殺
す。武器を持つ『宮守頭』でさへ之を恐れた程であるから、民衆の使徒等に味方する者は随分多か
ったらしい。イエスを十字架につける時にも祭司らは『民を懼れた』。キリストの福音は最初から
大衆の福音である。苦しめる者、悩める者、虐げらるるもの、搾取せらるる者の友である。教會が此
の使命を忘れて権力者に迎合するやうになった時は『味を失った鹽』である。金銭を與へる古都や經
濟組織の變更によつて人を救はうとするのは福音の使命では無い。人をして靈の生命の尊さを知ら
しめるにある。物質上の『凡ての物を損せしが、之を塵芥の如く思ふ』人こそ眞に大衆の味方である。
(祈禱) 神よ、今日の教會の無力を思ひて我らの胸は痛む。願はくは我らの心に天の寶の踊るものあらしめ、
教會の中には天の靈気の充つるものあらしめ給ひて、多くの悩める者を醫す所とならせ給へ。ア-メン