『主の使、夜、獄の戸をひらき、彼らを連れ出して言ふ、往きて宮に立ち、この生命の言葉を悉く民に語れ。』(使徒行伝 五ノ十九、廿)

 

 十二章にも之と等しい事件が委しく記してあり、十六章にも類似の記事がある。いづれも超自然の出来事である。だから此の『主の使』も所謂天使であったらうと思ふが。或は看守とか獄卒とかいふ者の心を主が動かして、時にとっての御使として用ゐ給ふたのだとしても其の意義に於ては同じことである。神の御用を為してゐる間、人は不可傷のものである。天の使命を奉じて立ってゐた使徒等は天の命によるに非ざれば決して倒れるものではない。イエスの十字架も天の時が来たからであって、人が勝利したのでなかった事はイエスの度々言明された所である。使徒等にもイエスのごとく殺される時は来る。併しそれは彼らが地上の使命を終わって天に帰るべき時が来てからである。使徒の中でもヤコブは早く殺され他の者はまだ永く残った。各々その使命が異なってゐたに過ぎない。私はいつも此く考へて主の御用と確信する事を為している時には一番安心してゐる。が、本當は何を為す時にも、此の心で主の御用としてそれを為すべきであらう。さすればいつでも主の使いに守られている。

 

 (祈禱)天の父よ、我らは偶然に生き、偶然に倒るるものに非ざるを感謝し奉る。汝を信じ汝に生き汝によりて事を為す我らには汝の許しなくして災難も来る事なきを信じて感謝し奉る。ア-メン