【映画】『パッチギ!』が描き出すいろんな生き方
たとえば、自分が1968年に青春時代を生きているとしたら、
いったいどんな人生を歩むことになるのだろうか。
時代は60年代、
戦後から20年経ち、
日本は高度経済成長の真っ只中で、
東京オリンピックは開催され、
東西冷戦は最高レベルにまで緊張化し、
ベトナム戦争は泥沼化、
日米安保は締結され、
国内は学生運動が激化、
ロックが世界を救うのか、
毛沢東が世界を救うのか、
そんな時代。
そんな時代を、もし自分が生きていたならば、
いったい何を目指しただろうか。
そんな時代、1968年の
京都の高校生と朝鮮学校の学生の
ケンカや恋愛や、
つながりやつながらなさを描いたのが本作。
そこには、
ケンカに明け暮れる人がいて、
フォークを歌う人がいて、
共産主義に染まっていきそうな人がいて、
そして、ヒッピーへと邁進する人がいる。
それぞれが、それぞれの思いで突き進む。
けれど、現代の若者のようにみんながそれぞれへ突き進んで
自分たちの物語を語っていくことはない。
この時代は、どう足掻いても、
人々の物語は、
歴史やイデオロギーに回収されてしまう時代のように映る。
どれだけそれぞれが青春を謳歌しようとも、
そのすぐそばには戦争があり、差別があり、貧困がある。
どう足掻こうとも、
それぞれの思いは、「政治的」にならざるを得ないように見えた。
この映画は、純粋に青春のぶつかり合い(「パッチギ」)を描いているけれども、
その根底には常に、政治の時代だった色合いが付きまとう。
第二次大戦、朝鮮戦争、ベトナム戦争、
日韓問題、安保問題、部落問題、
そんな問題たちが付きまとってしまう。
だから、純粋にそれぞれの思いを美しく描くことができない。
どこまでいっても、政治的なのである。
祖国を思う朝鮮学校の学生は、
それがすなわち東側の論理へ向かい、
先生が毛沢東を尊敬するのを見ていた学生は、
いつの間にか安保闘争へと進んでいく。
フォークを歌う学生は、結局反戦の論理へと向かってしまう。
直接的には、それらを描いてはいないけれど、
そんな「匂い」を感じてしまうのが、
今を生きるぼくらなのかもしれない。
ぼくらに、そんな論理は無い。
もはやイデオロギーもない、政治は無関係、
そんな時代には、それぞれはそれぞれの島宇宙を形成し、
そこで孤立して、生きて行くことができる、
もとい、生きて行くしか無い。
だからこそ、ある人は60年代を憧れたりもする。
何か向かう先があり、
反発する先があった時代を夢想したりする。
そんな人は、60年代にタイムスリップしたら、たぶん
ロックで反戦を主張したり、
安保闘争を先導したりするようになるのだろう。
今は何も向かう先の無い時代。
それは、ある意味「自由」なのかもしれない。
それこそヒッピーが本当に求めた時代なのかもしれない。
けど、本当にみんな自由に生きているかというと、全くそんなことはない。
何も向かう先が無い、なんでもやっていい、
その自由さが不自由すぎて、引きこもるしかなくなる。
人間ってホントに身勝手だな、と一笑に付すのは簡単で、
60年代を必死に生きた人たちが今笑うのは、別にいいと思う。
けど、ぼくらのように実際に今を若者として生きている人々は、
そんな自由で不自由な時代を生きなければならない。
自殺が道徳的に許可されたら、
たぶんものすごく多くの人が死ぬだろう。
なんとかこの世に繋がっている人が多い今、
なんとか寄る辺を探し求めるしか無い。
だから、『パッチギ!』の世界を憧れる人もいるだろうし、
何かに対抗しなきゃと言う人もいるだろう。
けど、そんな時代じゃない。
だったら、どうしたらいいのだろう、
とぼくなんかは戸惑ってしまう。
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【映画】『アメリカン・ビューティー』のパラノイアぷりったら
アメリカは病んでいた。
何かに取り憑かれ、
何かに苦しめられ、
行き詰まりをみせていた。
何がそうさせるのか分からずに、
ただがむしゃらに「成功」に向かっていく、
そんなアメリカンドリームだけが残存し、
今なお、追い立てられるように先へ先へ行こうとする。
それはまるで、パラノイアのように写ってしまう。
パラノイア、つまり妄想を抱く人々のこと。
自分を特殊な人間であると信じるとか、
隣人に攻撃を受けているとか、思ってしまう人々。
そんなパラノイア状態は、
中流階級の家にまで侵食していた、
というのが、この作品だと思う。
アッパーミドルのサラリーマン、レスターは、
妻、娘の三人暮らし。
一見普通の一家であるが、
もはや崩壊の兆しを迎えていた。
そして、3人のさらなる登場人物が現れる。
金髪美少女、変わった高校生男子、そして不動産キングの男性である。
それら3人に、一家3人はそれぞれが惹かれていく。
金髪美女と、冴えない中年男、
常にビデオを回し続ける変な高校生と、思春期の娘、
そして不動産キングと、仕事がうまくいなかい妻。
彼らは彼らに翻弄される。
夫レスターは、筋トレを始め、
娘ジェーンは、自分を撮り続ける男と一緒にいようとし、
妻キャロリンは、不動産キングと寝る。
まさに、それぞれが、アメリカが抱えるパラノイアを象徴する。
筋トレが象徴するマッチョイズム、
ビデオに映されることが象徴する自尊心、
そして、不動産キングが象徴する経済的成功。
この映画は、これらのパラノイアこそを、
「アメリカン・ビューティー」と皮肉ったのだった。
筋肉隆々のすばらしさ、
自分は特別だと思い込む自意識のすばらしさ、
金銭がもたらす繁栄のすばらしさ、
これらを「ビューティー」とみなすのが、
「アメリカ」なのである。
そして、それらに翻弄され、偏執的になっているのが、
いまのアメリカなのだと、この作品は語っているように見える。
1999年の作品ではあるが、
これらの価値観は廃れただろうか。
それは、今のアメリカを見てみればわかるだろう。
何かに取り憑かれ、
何かに苦しめられ、
行き詰まりをみせていた。
何がそうさせるのか分からずに、
ただがむしゃらに「成功」に向かっていく、
そんなアメリカンドリームだけが残存し、
今なお、追い立てられるように先へ先へ行こうとする。
それはまるで、パラノイアのように写ってしまう。
パラノイア、つまり妄想を抱く人々のこと。
自分を特殊な人間であると信じるとか、
隣人に攻撃を受けているとか、思ってしまう人々。
そんなパラノイア状態は、
中流階級の家にまで侵食していた、
というのが、この作品だと思う。
アッパーミドルのサラリーマン、レスターは、
妻、娘の三人暮らし。
一見普通の一家であるが、
もはや崩壊の兆しを迎えていた。
そして、3人のさらなる登場人物が現れる。
金髪美少女、変わった高校生男子、そして不動産キングの男性である。
それら3人に、一家3人はそれぞれが惹かれていく。
金髪美女と、冴えない中年男、
常にビデオを回し続ける変な高校生と、思春期の娘、
そして不動産キングと、仕事がうまくいなかい妻。
彼らは彼らに翻弄される。
夫レスターは、筋トレを始め、
娘ジェーンは、自分を撮り続ける男と一緒にいようとし、
妻キャロリンは、不動産キングと寝る。
まさに、それぞれが、アメリカが抱えるパラノイアを象徴する。
筋トレが象徴するマッチョイズム、
ビデオに映されることが象徴する自尊心、
そして、不動産キングが象徴する経済的成功。
この映画は、これらのパラノイアこそを、
「アメリカン・ビューティー」と皮肉ったのだった。
筋肉隆々のすばらしさ、
自分は特別だと思い込む自意識のすばらしさ、
金銭がもたらす繁栄のすばらしさ、
これらを「ビューティー」とみなすのが、
「アメリカ」なのである。
そして、それらに翻弄され、偏執的になっているのが、
いまのアメリカなのだと、この作品は語っているように見える。
1999年の作品ではあるが、
これらの価値観は廃れただろうか。
それは、今のアメリカを見てみればわかるだろう。
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【映画】『望郷』が見せるパリの美しさ
フランスの植民地アルジェリアに、カスパという町があった。
そこは、無法地帯となっており、犯罪者の巣窟で、警察も容易に手出しできなかった。
そこで、暮らす一人の男ぺぺ・ル・モコの物語。
ぺぺは、パリ生まれの前科15犯、強奪33件、
銀行強盗2件でパリ警視庁から追われるギャング。
そんな彼を捕らえるためにフランス警察は躍起となる。
一方、カスパの地元刑事スリマンは、ぺぺを黙認しているのだが、
裏では、フランス警察と手をむすび、ぺぺを追い込んでいこうとする。
そこに現れたのが旅行中のパリジェンヌ・ギャビーだった。
その美しさは、身にまとう宝石も見劣りするほどだった。
彼女にすぐさま心酔するぺぺ。
その恋心に漬け込む地元警察サリマンであったが、
ぺぺは、サリマンの計略を知る。
ぺぺは最後ギャビーに一目会うために、
フランス行きの船が出る波止場へ向かった。
しかも、そこに警察の待ち伏せがあることを知りながら。
そして、最後に描かれる悲しきラスト。
この物語の原題は「ぺぺ・ル・モコ」であるが、邦題は「望郷」。
まさに、ペペが恋焦がれる故郷パリを思う物語である。
そして、その象徴が、パリジェンヌ・ギャビーであった。
異邦人溢れる田舎ではなく、ましてやそこで出会う女性ではなく、
パリという夢の街、そしてそこからやってきたパリジェンヌに、ペペは惹かれる。
そこに自分を同一視もする。
ギャビーがいう、「We're neighbors」という言葉に、
ペペは喜びを感じる。
そして、後半、昔のパリの時代を思い出す太った女性の逸話が描かれる。
かつて美しいパリジェンヌで歌姫だったその女性は、
涙を流しながら、蓄音機から流れるパリの音楽に耳を傾ける。
その望郷の念こそが、この映画全体に奥行きを与える。
しかも、この映画でパリの映像は存在しない。
けれど、見ている観客はパリの美しさを思い描き、
見たこともない街への望郷の念を共有する。
だからこそ、最後にペペは、リスクを犯しても、
ギャビーを追いかけていく。
そして波止場で、「ギャビー」と叫ぶ。
それが、汽笛にかき消される演出こそが、
ペペの思いがギャビーに、そしてパリに届かないことを表していた。
そこは、無法地帯となっており、犯罪者の巣窟で、警察も容易に手出しできなかった。
そこで、暮らす一人の男ぺぺ・ル・モコの物語。
ぺぺは、パリ生まれの前科15犯、強奪33件、
銀行強盗2件でパリ警視庁から追われるギャング。
そんな彼を捕らえるためにフランス警察は躍起となる。
一方、カスパの地元刑事スリマンは、ぺぺを黙認しているのだが、
裏では、フランス警察と手をむすび、ぺぺを追い込んでいこうとする。
そこに現れたのが旅行中のパリジェンヌ・ギャビーだった。
その美しさは、身にまとう宝石も見劣りするほどだった。
彼女にすぐさま心酔するぺぺ。
その恋心に漬け込む地元警察サリマンであったが、
ぺぺは、サリマンの計略を知る。
ぺぺは最後ギャビーに一目会うために、
フランス行きの船が出る波止場へ向かった。
しかも、そこに警察の待ち伏せがあることを知りながら。
そして、最後に描かれる悲しきラスト。
この物語の原題は「ぺぺ・ル・モコ」であるが、邦題は「望郷」。
まさに、ペペが恋焦がれる故郷パリを思う物語である。
そして、その象徴が、パリジェンヌ・ギャビーであった。
異邦人溢れる田舎ではなく、ましてやそこで出会う女性ではなく、
パリという夢の街、そしてそこからやってきたパリジェンヌに、ペペは惹かれる。
そこに自分を同一視もする。
ギャビーがいう、「We're neighbors」という言葉に、
ペペは喜びを感じる。
そして、後半、昔のパリの時代を思い出す太った女性の逸話が描かれる。
かつて美しいパリジェンヌで歌姫だったその女性は、
涙を流しながら、蓄音機から流れるパリの音楽に耳を傾ける。
その望郷の念こそが、この映画全体に奥行きを与える。
しかも、この映画でパリの映像は存在しない。
けれど、見ている観客はパリの美しさを思い描き、
見たこともない街への望郷の念を共有する。
だからこそ、最後にペペは、リスクを犯しても、
ギャビーを追いかけていく。
そして波止場で、「ギャビー」と叫ぶ。
それが、汽笛にかき消される演出こそが、
ペペの思いがギャビーに、そしてパリに届かないことを表していた。
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【映画】『ショーシャンクの空に』 本当の自由を知っている男の物語
自由ってのものを感じるのは極めて難しいのだと思う。
刑務所の中にいても感じれるときはあるだろうし、
外に出ても感じれ無いときはある。
それが、たとえ民主主義国家でも、資本主義国家でも、法治国家でも。
これが自由なんだな、と人が感じるのはどんなときだろうか。
たとえば、日本では信教も思想も所有も職も自由に選択できる。
すべての国民は、それに与ってるわけだけど、
いま、自由を感じているのだろうか。
人とは傲慢なもので、与えられすぎると、
足りないものばかりに目を向ける。
学校の課題に不自由さを感じ、
仕事の辛さに不自由さを感じ、
天気が悪いのに不自由さを感じ、
スーパーの品揃えに不自由さを感じる。
けれど、
学校に通える自由や
働ける自由、
天気が悪くとも外出できる自由、
商品を買う自由
といったものは忘れてしまう。
もちろん、どこにも不自由はあるし、
誰もがそれにグチをこぼす。
けれど、
いまある膨大な自由を感じることって、
たまにはしたほうがいいと思う。
それは、刑務所の中にいながら
屋根の上でビールを飲むことような、
モーツァルトを聞くことような、
そして、本を読むことのような、
そんな一瞬の自由がこの映画では描かれる。
その一方で、
刑務所の外に出ても、
自由や希望がないという現実にも目を向けさせてくれる。
主人公はたぶん、自由が何かってのを知っていた。
だからこそ、無実の罪であっても、
刑務所の中で希望を失わずに生きていけた。
今ある自由に感謝しなさい、
なんていう啓発的文句に価値はないけれど、
この映画を見て、
たまに垣間見える自由ってものを感じたらいいと思う。
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【映画】『ダークナイト』をついに見てしまった。
You complete me.
と、ジョーカーは、バットマンに言う。
ジョーカーは、自分自身が、
バットマンがいてこその存在であることに自覚的となった。
それゆえ、バットマンが強くなればなるほど、ジョーカーは強くなる。
善が大きければ大きいほど、悪も大きくなる。
しかも、悪は常に善の先を行く。
ヒーローは結局、敵の後追いしかできない。
そんなヒーローの無力感をバットマンは実感し始める。
悪は拡大し、感染し、肥大する。
けれど、善の脆さ、不自由さは変わらない。
そんな非対称に、
人々はバットマンをスケープゴートにしようとする。
バットマンさえいなければ、という憎悪の念が増してゆく。
そんな善と悪の対立の終着点を、この映画は描こうとする。
『バットマン・ビギンズ』から続くクリストファー・ノーラン版バットマンシリーズは、
今作を2作目として、計3部作になると言われている。
今作で最後にバットマンが選んだ選択は、
この先どこへ向かうのか。
もはや、この世界はバットマンを本当に必要としていないのだろうか。
それとも、悪を背負う誰かによって逆説的に、人々は団結することになるのだろうか。
その結末を知るためにも、次回作を待つしか無いらしい。
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