ブログをはじめてみたものの、
好きな詩を三つ写してそれっきり💦

素直に表現できる人、
言葉が降りてくる人、
いいな~と思う。

かっこつける自分、
体裁を気にして開けない自分がいるから
難しいのかな。


桜の頃出会ったチャネラーさんに、アフリカのキリマンジャロを仰ぎながら詩人として生きた黒人男性の過去生を言われたことがあったっけか。

世間の喧騒から逃れて森にこもり思索&詩作の日々。でも、家族が病気になり山を降りたものの、充分に世話することもできず、自分の生き方はこれでよかったのかと悶々としていた、と。

詩がすごく好きなことと、いつもここではないどこかを夢想してしまういまの自分に通じている気がして、なるほどな!と思った。
リアルに見えないタチなので、ほんとかどうかはまだ検証中。


詩というよりも、その時の自分にぴたっとくる言葉に出会えると、涙が出るほど感動するとともに、書き手と、その言葉との出会いをセッティングした奥の誰か?に感謝でいっぱいになる。


いつもいつも自分を支える言葉を
求めているかもしれない。

言葉が神。
ロゴセラピー。

      序




わたくしといふ現象は

假定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)

風景やみんなといっしょに

せはしくせはしく明滅しながら

いかにもたしかにともりつづける

因果交流電燈の

ひとつの青い照明です

(ひかりはたもち、その電燈は失はれ)



これらは二十二箇月の

過去とかんずる方角から
紙と鑛質インクをつらね

(すべてわたくしと明滅し
 みんなが同時に感ずるもの)

ここまでたもちつゞけられた
かげとひかりのひとくさりづつ
そのとほりの心象スケッチです




これらについて人や銀河や修羅や海膽は
宇宙塵をたべ、または空気や塩水を呼吸しながら
それぞれ新鮮な本体論もかんがへませうが
それらも畢竟こゝろのひとつの風物です
たゞたしかに記録されたこれらのけしきは
記録されたそのとほりのこのけしきで
それが虚無ならば虚無自身がこのとほりで
ある程度まではみんなに共通いたします
(すべてがわたくしの中のみんなであるやうに
 みんなのおのおののなかのすべてですから)




けれどもこれら新世代沖積世の
巨大に明るい時間の集積のなかで
正しくうつされた筈のこれらのことばが
わづかその一點にも均しい明暗のうちに
  (あるひは修羅の十億年)
すでにはやくもその組立や質を變じ
しかもわたくしも印刷者も
それを変らないとして感ずることは
傾向としてはあり得ます
けだしわれわれがわれわれの感官や
風景や人物をかんずるやうに
そしてたゞ共通に感ずるだけであるやうに
記録や歴史、あるひは地史といふものも
それのいろいろの論料といっしょに
(因果の時空的制約のもとに)
われわれがかんじてゐるのに過ぎません
おそらくこれから二千年もたったころは
それ相當のちがった地質學が流用され
相當した證據もまた次々過去から現出し
みんなは二千年ぐらゐ前には
青ぞらいっぱいの無色な孔雀が居たとおもひ
新進の大學士たちは気圏のいちばんの上層
きらびやかな氷窒素のあたりから
すてきな化石を發堀したり
あるひは白堊紀砂岩の層面に
透明な人類の巨大な足跡を
発見するかもしれません




すべてこれらの命題は
心象や時間それ自身の性質として
第四次延長のなかで主張されます

  

 春と修羅  第一集            

大正十三年一月廿日  

やっぱり天才だ!宮沢賢治。

命あるうちにこの詩の意味が実感できたらなぁ。

ただそれだけが願い☆

甃 の う へ


をみなごに花びらながれ

をみなごしめやかに語らひあゆみ

うららかの跫音空に流れ

をりふしに瞳をあげて

翳りなきみ寺の春をすぎゆくなり

み寺の甍みどりにうるほひ

廂々に

風鐸のすがたしづかなれば
ひとりなる

わが身の影をあゆまする甃のうへ


(詩集「測量船」より)

             



東京の桜も咲き始めたのかな?

高校生の頃に出会った三好達治のこの詩が好きで好きで・・・!

桜が咲いている間だけは古びた文庫の詩集をバッグに持ち歩く。

毎年の手帳に書き写す。

今年は買ったばかりのiPhoneにも入れてみた。



焦がれるのは、はらはらと舞い散る桜吹雪の中に佇むこと。

病いを得て「もう来年の桜は見られないかも・・・」と思いながら、

25年目の桜を、今年もまた見ることができた。



ありがたい。

感謝しかない。