こんにちは。



先日のごはんは、

こちらでした💁‍♀️💁‍♀️





友だちと卒業旅行で松島へ行ったときの

カキフライ定食♡♡



(最高でしたとろけました、、、)

(食べものって人を幸せにしますよね)

(ありがとう ありがとう ありがとう)


ラブラブラブラブラブラブラブラブラブラブラブラブ



生きることとは、負荷をかけること


わたしたちは

「環境に負荷をかけずに生きる」ことを

めざしすぎないほうが

いいのかもしれないなぁと

感じることがあります。



どういうことか。





たとえば

住むための家を新築で建てるとして

その場所を更地にととのえるという作業は

そこだけ見れば、

環境に負荷をかけることになります。



草や木がはえている場所を

土だけの状態することは

自然環境にとっては、

かなりインパクトのある出来事です。



でも、家って

生きるために必要なものなので



環境に負荷をかけることになるから

そんなことは辞めなさい、

なんて言えません。




そんなふうに
「生きていればどうしても
 負荷をかけてしまう」ことは
よくあります。



たとえば、

息を吸って吐くという呼吸もそうだし

トイレに行くこともそうだし

なんなら、地面の上に立つということさえ

「踏圧」という「負荷」にあたります。





本当にすこしのことでさえ

環境に負荷を与えている、と

言うことができるわけです。




なので

わたしたちが生きていくうえで

完全に自然環境へ負荷を与えずに生きる

と、いうことは



たぶん

不可能なんじゃないかなぁと思います。




そんなふうに

わたしたちが便利に豊かに生きるうえで

完全に自然環境に影響をあたえないのは

むずかしいのだ、と

自覚することも


環境問題とむきあうときは

大切なのかもしれません。





負荷をかけないことを理想としすぎると

生きるということ

自分自身の存在そのものを

否定してしまったり、

疑ってしまったりして


とても苦しいと思います。







もうひとつ。

自然環境に負荷をかけることは

一概には「悪いこと」では

ないのかもしれない、とも思います。



もちろん、

負荷をかけすぎて

土砂災害がおきるようになったり

生態系のバランスが崩れてしまったり

というのは、



みんなにとって不安になることだし

できるなら回避したいこと、

だと思います。




ただ、

ここで言いたいのはそういう話ではなく




自然に負荷をかけたということは

それだけ、



その自然環境を

必要としたということ



だという話です。




必要とした、ということはつまり

それだけ

関わりをもったということであり



関わりをもったってことはつまり

それを「大切に想った」

ってことだろうと思うんです。





家族や恋人で考えると

わかりやすいかもしれません。



相手を「頼る」「甘える」ということは

相手をそれだけ「必要とした」わけで



やってもらえた分だけ、

「ありがとう」という気持ちがうまれて

逆にこちら側も

相手を支えようとしたり

大切にしようとしたり

すると思うのです。






つまり、

環境に負荷をかけること自体が

悪いことなのではなくって




何十年先のところまで

想いを馳せることなく



「めぐみをありがとう」という気持ちを

忘れてしまうスタンスが



苦しさをつくっているのかもしれないなぁ

と、思うわけです。




卒論




生きることとは

環境に負荷をかけること。




そのことを受け入れてしまったうえで

豊かさとはどんなことなのか

良いバランスってどこからなのか




一つずつ模索していくことが

大切なのかもしれないと感じています。






これから先も

地球とわたしと大事なひとと

しあわせにわらって過ごせたら。

ではまた♪



こもれびゆら