子どもは、感覚で世界を捉えている。
自我が芽生え、思考能力が発達していくと、感覚だけではなく、記憶とつなげて生きていくようになっていく。だが、特に、自我が確立していない幼児は、感じたものを吸収して生きている。まだ、世界に輪郭がないのだ。
時間の感覚もまだない。ただただ、今を生きている。昨日も明日も2時間後もよくわからない。ただ、場所の記憶というものは早くから芽生える。保育園でやったことを家で親に尋ねられても、わからない。でも、保育園に来ると、椅子を並べて電車を作ったことなど、思い出す。私のことも、保育園と絡めて覚えられているので、偶然バスで会っても、ぼーっと見つめられている。保育園に来て、私がいないと、不思議だと思う。どうしていないのかと。
良く起こることで言えば、一人の子供が泣き出すと、ほかの子供も泣き出す。ほかの子供は、悲しくも痛くもなにもないのだが、泣いてしまう。
こんなこともある。数年前になるが、プライベートでとても辛いことがあり、でも仕事の時はいつも通りにしていた。ある日、お昼寝の時間、真っ暗な寝室で、ある子どものベットの横に座っていると、思いがこみ上げてきて、泣きそうになるのを必死にこらえて子供を寝かせていた。そうするとポニーという当時、2歳半の女の子が、遅れて寝室に入って来て、なぜか自分のベットへは行かず、私の背後に立ち、後ろから私をギューッと抱きしめたのだ。
私の波動を感じ取り、共感し、同情する感覚が湧き、反射的に抱きしめたのだろう。
ちょっと違うけれど、これもまた、似たようなことがよく起こる。
昨日、2歳になったばかりの、女の子、テッサがお昼寝から起きてすぐに、ママー!と泣き始めた。テッサにしては珍しいと思ったが、歯が生えるときや病気の始まりの時など、いつもはスッと起きる子が泣いたり、ぐずったりすることはあるので、そうなのかなぁとは、思っていた。でも、着替えているときも、お昼寝のあとのおやつの時も、それは収まらず、おやつも一切食べようとしない。そうすると、珍しくパパがお迎えに来る。とても慌てている様子で、妊娠中のママの体調が急に悪くなり、病院に運ばれたから、すぐに向かわないとと。
きっとテッサは、ママの状況を察知していたのだろう。
特に幼少期の子供と母親との結びつきは強い。お腹の外には出たけれど、でも、まだすっぽりと母のオーラの中にいる。そして、少しづつ、そこから離れ、“私”という自我が目覚める。思考能力がつく。だから、私を含めて、ほとんどの人が、自我が確立する3歳頃からの記憶しかもっていない。
しかし、それまでの感覚で受け取った記憶は、脳の記憶としては残らず、身体と魂に残る。
それは、消し去ることのない記憶になり、無意識のところで記憶となる。その人の基礎となる大事な時期なのだ。
三つ子の魂百まで。
どの子も溢れんばかりの愛に満たされて育ってほしいものです。
