愛知県豊田市:足助城。
戦国時代にこの地を治めていた足助鈴木家の居城で、
築城年代は不明。
標高301mの真弓山山頂を本丸として、尾根を利用した連郭式の山城です。
本丸には高櫓と長屋、西の丸に物見矢倉、南の丸にも物見台や厨、
また各所に板塀などが復元されております。
堀切。
階段上の防御構造です。
ただ、KK視点としては、
攻め手側からは、登り易くなり、段差間で途中退避も可能そうです。
投石や丸太の投木などやられても、段差間で回避ができそうな感じです。
本丸までは普通に登って4~5分でしょうか。
足助鈴木氏の家紋「下がり藤」と「抱き稲穂」。
高櫓と長屋。
せっかくのいい感じの山城風情に無粋な鉄塔が…
中は見学でき、当時の姿が再現されています。
二階部分から。
街並みも一望できます。
城にあるべき位置にあることがわかります。
実際に目にしてみると、城というよりは砦の様相です。
切りこんだ丸太塀などは、荒々しく、山頂の砦感を増幅させてくれます。
南物見台。
見張り台と、狼煙を上げるための通信施設だったようです。
南の丸、台所長屋。
居住施設ですね。
屋根が飛ばされないよう、おもしとなる石が置かれています。
これは結構珍しいかもしれません。
昭和の時代でも、トタン屋根長屋などには石がありました。
西物見台。
周囲はモミジです。
秋には紅葉絶景になります!
西の丸。
この時点で16:00。
写真的に順光となる、昼過ぎの午後が良いかと思われます。
足助鈴木家は、岡崎の松平家の配下となります。
松平家康、のちの徳川家康です。
天正18年(1590)、家康の関東入国に伴い足助鈴木家も移動。
いわゆる、転勤ですな。
時の当主、康重は徳川家から離反。
浪人になったと伝わります。
足助城も廃城となりました。
それでは攻城してみましょう。
周囲の樹木は伐採されており、KK得意の焼き討ちができない…
ただ、本丸エリアは広くない。
平地面積自体がすくないため、投石、投木などの置き場もそう多くはとれない。
全体規模から、四ケタ1000人規模は補給も含めて駐屯できそうにない。
多く見積もって400~600人。
KKが総大将。
戦略目標は城(エリア)の奪取。短期決戦。自軍被害は最少に抑える。
手勢は3000。
鉄砲と投石対策で竹盾を用意。
木柵越えのため、鉄鉤付きの長縄を用意。
こちらの手の内を明らかにしないように夜襲。
目立つ余計な旗指物などは付けない。全員黒装束。
三方向からの同時進軍。随時火矢を放ち、構造物は燃やしてしまう。
なお、籠城側大将の首を捕ることが目標ではないため、逃げたい者にはさっさと逃げてもらう。
城の後背は空けて、窮鼠猫噛みにならないようにする。
なお、赤丸は谷あいに囲まれた虎口。
いわゆるキリングゾーン。
うかつに攻め込むと、三方向からの攻撃を受けてしまう、一番危険なところ。
城の生命線、井戸はここにある。敵もちゃんと考えている。
最終的には、兵数、あたま数がモノを言う。
籠城側は絶対的な兵数に欠ける。
防御を集中させないように、分散させる。
丑三つ時に攻撃開始、夜明けとともに勝利の凱歌になると、勝手に想像するのであります。
気軽に攻城できる山城です。
秋の紅葉絶景時期にぜひどうぞ!
攻城の刻、美濃国攻城記はこれにて。
さいごまでお付き合いいただき、ありがとうございました。