今日は写真無しの過去話で重めです。
私、実のとこ、結婚二回目なんです。
始めの夫はどうしたかって、亡くなりました。タバコ、酒両方過剰の上での過労で。彼はその時まだ36歳でした。私よりも4歳年上だったんだけど、あれよあれよと言う間に私の方がずっと年上になっちゃいました。
その頃はまだ私自身子供を持つ自信が無かったし、彼が忙しすぎて常に体の具合が悪かったので子供を持つ、と言う気分にはならなかった。それでも、その結婚は彼が亡くなるまで8年も続いた。二人の時間が中々取れないことでケンカもそれなりにしたけれど、まあまあ、うまく行ってたんじゃないかと思う。
8年目のある日、彼は風邪をこじらせて40度近い高熱が下がらなくなった。近所のお医者さんに行ったけれど、解熱剤をくれる以外は大きな総合病院に行くように勧められていた。でも、彼は解熱剤を飲んで体温が38度になると、下がったから、と会社に行った。
帰宅後の明け方、ベッドの振動で目が覚めた。
彼は意識がなく、ひどい痙攣で体中が跳ねるように動いていた。
救急車で総合病院に行ったけれど、そこで夜勤のお医者さんは私に言った。大人で痙攣が出る、というのは菌が脳に侵入した、と言う事なので、良くても重篤な障害が残るし、かなり高い確率で死亡します、と。
始めの一週間は、もしかしたら彼の体力が菌に勝って、障害が残る物の、助かるかもしれない、と言う望みもあった。
でも、彼の痙攣は全身麻酔をかけても一向に止まらず、望みが薄くなっていくのは素人目に見ても明らかだった。大人の痙攣は、そのまま脳が破壊されていっている、という事につながるからだ。
やがて、いつ死んでもおかしくない、と言われてからも、彼は救急病棟で生き続けた。夫婦として、いつ来るかわからない彼の死を見届けなければ、と言う気持ちで、私にはそこにいるしか選択の余地がなかった。そして、彼の状態もぎりぎりが長く続いたので、病棟を替える事も難しかった。
救急病棟は本来付き添いは認められていないので、ベッドの持込等はできず、リクライニングの椅子を入れてもらって寝泊りした。その間にも、毎日、毎晩、命が危ない状態の患者さんが入院してきては、去っていった。
着替えやシャワーに帰るにも、その間の命の保証は出来ません、と言われた。
3週間を過ぎた辺りから、長いストレスで鼻血が止まらなくなり、やがて眠れなくなった。それでも、彼の仕事があまりに忙しかったので、入院後は、毎日、毎日一緒にいられる事が幸せであるような気さえしていた。
でも、一方では、仮に、彼が死ななかったとして、ずっとこうして動かない人と時間を過ごしていくのかと思うと不安で眩暈がしたし、かと言って死を待っているのか、と思うと心の底からやりきれなかった。当時の私は彼に経済的な事だけでなく、精神的にも頼り切っていたので、どちらにしても、その後の事など想像もつかなかった。
私は、自分の中のエゴと真正面から向き合わなければいけなかった。
その時、確かに、重篤な障害を残して生きていられるよりは・・・、と思っていた自分を吐き気がするほど嫌な人間だと思った。元々同僚だった彼とは仕事でも苦楽を共にして、山あり谷ありの中、気持ちを確認しあい、そうやって結婚前からを数えると10数年も人生の相棒をやっていたというのに。
眠れなくなってから、私自身の体力も見る間に落ちて行き、とうとう、私は救急病棟での寝泊りは許可されなくなった。夜は自宅に戻り、独りぼっちになった家の、独りぼっちになったベッドで眠った。
それから、本当にもう打つ手は何もなくなり、彼は内科病棟に移された。
初めて病院に来てから、二ヶ月がたとうとしていた。
それまで、誰にあっても、「大丈夫だよ、私は健康なんだし」と笑顔で対応してきていた。別にやせ我慢ではなく、それが私と言う人間のあり方なんだと思う。でも、内科病棟の婦長さんに「お気持ち分かります、私も少し前に主人を亡くしたので」と言われ、それまで溜めていた気持ちが言葉になって溢れ出した。
こんな風にずっと付き添っているけれど、愛なんて口にするのは簡単だけれど、自分はただ、彼に依存しているだけなんじゃないか、心の奥底ではこのまま時間だけ流れていってしまうのならどうしたらいいのか、と思っている。私は結局自分の事ばかり考えている。どうしようもなく、やるせない・・、そんな事をとめども無く話し、看護婦さんは、ただ、頷きながら私の話を聞いてくれた。
思いのたけを聞いてもらえた事で、気持ちが少し落ち着いた私は、それから2週間、ただ、静かに彼の病室にいた。
そして、ある日の真夜中。
心電図が全く折れ線を描かなくなり、お医者さんが私にお悔やみを述べた。
でも、彼がもうずっと動かなかったので、私には状況がすぐに受け入れられずに「でも、まだ少しだけ動いてますよ」と心電図が何かの拍子でほんの少しだけ揺れるのを指摘したりした。
両親は少し遠くに住んでいたけれど、車でこれる範囲だったので毎日のように来てくれていたし、この時も連絡をしたら葬儀等全ての手続きを素早く手配してくれた。
私は、ずっと泣かなかった。
悲しいのか、どうなのか、も、わからなかった。表面上でははきはきといつも通りにしている自分がいて、心の中は、と言うと、空っぽだった。何をどう考えていいのか分からなくなっていたんだと思う。
一度、悲しみや不幸に取り込まれてしまうと、もうそこから這い上がってこられないような、そんな漠然とした恐れで、感情を揺り動かされるのが嫌だったのかもしれない。
通夜や葬儀はたんたんと手順通りに進み、最後の段階の火葬場に来た。
それぞれがお別れの言葉を言う中、棺の窓が閉まり、彼の顔が見られなくなり、そのまま、棺が窯へと滑り込んでいった。そして、重い扉がしっかりと閉められたとき、ただ、涙が溢れた。
悲しいとか、言葉で説明できる感情ではなく、ただ、涙がどんどんと頬を伝って行くのを感じながら、扉の前に立ち続けた。
どの位そうしていたのか、もう覚えていない。
彼の死後、沢山の方からお悔やみの言葉を頂いた。その中に、本当に残念だ、まだ若かったのに、と言う事が多かったんだけど、私は、そういう風には思いたくない。彼の人生は、どうであれ、もう終わってしまっている。どうやっても何も変える事はできない。それならば、彼の人生は、彼なりにそれで良かったのだ、と思いたい。後悔しながら一生を終わっていった、と思うのはあまりにも辛すぎるし、彼の人生に失礼な気がする。
その後しばらく、人に自分の事情を話すと、時折「まだ愛してる?」と聞く人があって、それにも困った。もし仮に、私がまだ愛しているんだとしたら、私に何が出来ると言うんだろう・・?
残酷だけど、血縁者でない限り、亡くなってしまった人を思い続けることは出来ない。亡くなってしまった人の時間はそこで止まってしまっているけれど、生きている限り、次々にいろいろな事が起こるし、過去は忘れていってしまう物なのだ。
始めこそ、私も迷いがあった。生きて、先を考えて歩いていく事自体に罪悪感を感じてしまっていた。よく、亡くなった人も残った人の幸せを願っているはず、と言うけれど、それは奇麗事だと思う。亡くなってしまった人はもう何も言えないのだから、勝手に残った者があれこれ想像で言う事はできない。
彼の人生は、彼の中で完結した。
私の人生の中で彼がいたことはとても大切な時間だったし、いい事も悪い事も含めて思い出だ。今でも、ケンカのことを思い出して今さら頭にくることもある。あの時、ああ言ってやればよかった、とか。
そうして、彼が亡くなった後もとうとうと流れ続けている私の時間。
英語が一番苦手だったのに習い始めてみて、どうしたわけかオーストラリアに留学を決め、これまたどうゆうわけかネパール人に出会い、また結婚し、子供が生まれ。
そして、11月21日、二回目の結婚の、二回目の結婚記念日。
夫も私も遠慮なく何でも言うようになったので、日々大小を問わず揉め事が絶えないけれど、ふと冷静になって振り返ってみるとき、こうして夫婦と、その子供と、一つ屋根の下でちゃんと毎日ご飯が食べられる、何て幸せな事なんだろう、と思う。
今をもっともっと大切にしないといけないなあ、って。
もっとお互い優しく出来る夫婦になりたいなあ~。あ、何となく他力本願的・・?
そんなこんななのでした。
いつも応援ありがとうございまっす
! I LOVE YOU!!
あわわ、とてつもなく長くなってしまった。でも二回に分ける話題でもないしね・・。