9.11. | ゆんブロ-Rising Yun-

9.11.

米同時多発テロからもう10年・・・。
あの現実と思えない恐ろしい映像が、今も自分の中で鮮明に残っています。

ちょうど10年がたったということで、TVでもこの日が近づくにつれあの時の真相を追った番組が多く放送されたり、アンコールとして以前放送された番組が再放送されたり。

時間が許す時に、忘れてはいけない、これは現実に起こったことなんだ、と見ています。
現実なんだ、覚えておけ、忘れるな、と自分に言い聞かせるように。


今年5月、あれから10年たって首謀者がアメリカ特殊部隊によって殺害されました。
凄く驚きました。そして やっとか!と思ってTVを見ていたのを思い出します。

これまで一種の見せしめとしてかなと私は思っているのですが
国際テロ犯などの最後の姿は公開してきたアメリカなのに
これだけ大きく世界までもを巻き込んだ9.11の首謀者の最後の姿が公開されませんでした。
何故だろう、見せられないくらいに酷かったのか、と勝手に想像してしまう自分ですが
政府が正式に声明を出したので恐らく首謀者はもうこの世にはいないんだと思っています。
メディアがどこまで信じられるかという難しい部分も頭をよぎりますが
これだけは信じたいです。

勿論、首謀者が死んだから終わりとか死んでないからまだ終わってないという問題ではないと思っています。
ましてや被害者の家族にとっては死ぬまで忘れられないと思います。
今もまだ、DNA鑑定で身元を調べていると知りました。
なんかもう、言葉がないです。
私は平和な日本に住んでいるけど、世界はこうなんだ、と平和ボケしてはいけないと
そんな風に思いながら書いています。

あの時、あのビルの中には生身の人間がいたわけで。
いつもと変わりない日常をおくっていたのに。
罪も何もない多くの人が恐怖と怒りの渦に一瞬にして飲み込まれたと思うと悔しくてなりません。

経済の中心、WTC。軍事の中心、ペンタゴン。
そして乗客によって阻止できたと報道されている残る一機は
恐らく政治の中心・ホワイトハウスを狙っていた。
嘘みたいだけどこれが現実で、さらにまだたった10年前の出来事。
思い出しても恐怖です。

祈ることしかできないけれど、命を落とされた方々の魂が
今苦しむことなく安らかに眠っていますように。

お祈りします。






















実はあの時、アメリカを旅でまわっていました。
以下、あの時アメリカを旅していたときの記憶です。というか、10年前の旅行記みたいな・・
10年目の今、書いておきたいと思いました。



長いのでスルーして下さい。


(コメント欄も閉じています)
















10年前あのテロの前後あたり、私は友達と二人でバックパックで旅をしていました。
自分の体ほどの大きさのバックパックを背負っての自由気ままな旅。
宿は寝袋持参だからユースホステルが殆どでした。

旅は西海岸から始まって、アメリカ全土を現地のグレイハウンドという長距離バスと、
事前に日本で取っておいた周遊パスで1ヶ月ちょっとかけて回る予定でした。

ロスから始まり徐々に東へと移動し、11日前にはすでにNYについていました。
はっきりと「この日にここの都市にいる」と決めずにだいたいの予定だけ決めて旅に出たので
自宅に置いて来た家族宛の予定表には「10日あたりNYうろうろ」としか書いていませんでした。
(その事で後に家族に大心配をかけることになるのですが)

その日暮らしの旅をしていたので短い時間でも結構色々観光もしたり有意義に過ごしてました。
NYではお決まりのところもまわったり、ちょっと久々にリッチに食事しようといいレストランに入ったり。
そこでとっても親切でおもしろいウェイターさんにオススメのところを教えてもらったり。
それがあのWTC(ワールドトレードセンター)でした。
行くといいよ、展望台もあるし、ということでしたがなにせ普通に会社が入っている高層ビル。

朝8時までにいくとロウアーマンハッタンが全貌できるしとにかく観光客が少なくすいているよ。
との事で行くなら朝の8時までがいいと教えてもらいました。


翌日(8日)、ユースのバスルーム(NYは共同で物凄くユースが大きい)が大混雑で
順番を待っている間に時間がなくなり8時までにWTCにつけませんでした。
それでももうだいぶNYは見たし、何度も以前来ていたのでそこまで見たい!と思う所もなく
下見がてら散策に行くか~!とWTCに向かいました。

灯台下暗し。近づくにつれ、目印のあの高層ビルが見えなくなる。
まだ着かないか?と思ったらなんと、もうWTCの真下についていました。
すっごく綺麗なビルで働いている人もみんなサバサバとかっこよく、

「こんな世界の経済の中心みたいなところで働けたらカッコイイな!」

なんて友達と話してました。
ビルの中にも少し入ったり。警備の人に「展望台にいきますか?」ときかれ、
「いや、今日は登らない、また来ます」と邪魔にならないように足早に去りました。

その日の夜はWTCと向かい合って建っているようなエンパイヤステートビルに登って夕日を見ました。
エンパイヤの展望台と同じくらいの高さだしもう明日WTCは行かなくていいか?という話になりました。
NYのユースは大きいけれどそれだけ宿泊したいというバックパッカーも多く、
事前予約が取れなかったので当日受け付けの枠のために、
毎朝受け付けの数時間前から荷物をまとめて長蛇の列に並ばなくてはいけなくて・・・
それが苦なので諦めたという所も正直ありました。




9月9日。
7:00NY発11:20ワシントンDC着のグレハン(長距離バス)に乗って移動。
DCは次の目的地・バッファロー(ナイアガラの滝)への通過点だけで寄ったので少し街を見る程度。
翌10日にはさらに通過点目的地ピッツバーグへ移動。ピッツバーグには10日の夜に到着しました。




9月11日。
ピッツバーグ。快晴。
ナイアガラ行きのグレハンは混むと聞いていたのでちょっとでも早くにバスディーポ(乗り場)へ
向かいました。
大きな川を渡らないとバス乗り場に行けなくてメトロバスに乗車します。
思ったよりも長い距離を移動し、メトロバスと言っても地下に入ったり地上に出たり大きな橋を渡ったり。
前日は夜に着いたから町並みが全く分からなかったけどとっても綺麗な所。
川が日光を反射してキラキラしてたのを思い出します。


そうしてようやくピッツバーグのグレハンバスディーポに到着。
バッファロー行きのバスの時間を確認しようと係りのいる列に並んでいました。
仕事がとにかくのんびりで遅いのもあり、かなりの間並んでいたと思います。




(この間あたりに、あのテロが起こっていたようです。)





スタッフが大声で怒鳴り散らすくらいの勢いで

「バスは前線ストップだ!ここももうすぐ閉めるから今すぐ全員出てくれ!できるだけ早く!」

「公共の交通手段も全部とまるから!急いで!」

と何度も繰り返しました。いきなりバスが走らない、ここも閉める、交通手段は全部動かない、
なんて言われてバスディーポにいるみんながわけが分からず混乱していました。

まあまあ大きなバスディーポでロッカーもあり、外の方をみたら別のスタッフが

「ロッカーに荷物を入れてる人がいたらすぐに出してくれ!」

と叫んでました。デモか?ストライキか?と思ってたらあっという間にスタッフが手早く
チェーンを持ってきてバスディーポを閉めはじめていました。
乗客もどんどん減っていく。理由は分からないけどとにかく出なくては、と私たちも外に出ました。

そして自分達が聞き取れなかったのかもと思ってそばにいた人に
「何があったんですか?交通手段って地下鉄も?」と聞くけどその人も
「分からない、こんなのはじめてだよ」と。


仕方なくちょっと街の栄えてる方に体くらい大きなバックパックを背負って行ってみると
既に人がうようよしていて帰る手段をなくした人たちがまだかろうじて動いていた市バス停前で
列を作っていました。家に帰ろうとしていたみたいです。


旅行者ほど情報が遅いし、状況がわからないよなとこの時痛感しました。
しばらく旅でそこにいると、たまに自分が旅行者、外国人、ということを忘れそうになってしまう・・


ちょっとヤバそうだな、どうしよ?なんていいながらも行くあてがないのでうろうろ。
こんな非常事態なのに何にも状況が分からない。
とりあえず嫌な雰囲気がするし、ストでスーパーや飲食店まで閉まったら困ると
ぱっと目に入った中華屋さんに入りました。

店内は数人客がいて、「よかった。ここは営業してた!」とそそくさと注文。
料理がとどいて「ああ~久々の中華!」なんてのんきに食べ始めたら警察が入ってきて

「今すぐ閉めなさい!!!」と一言、大声で叫んで出て行きました、すっごい剣幕で。

店内の人間でみんな暗黙の了解みたいに目をあわしたのを覚えています。
殆どまだ料理に手をつけてなかった私達の所に店の人がドギーバックを持ってきてくれました。

「さっきグレハンも動かないって言われて追い出されたんだけど何があったの?」と聞くと

「このピッツバーグ郊外に飛行機が落ちたらしい、詳しくは分からないけど警察はそう言ってた」と。

「どうして飛行機事故で店を閉めたり交通まで全部とまるの?」と聞いたけど店の人は 

「私もしりたいよ!フロリダのディズニーワールドまで今客を追い出してるって。
何があったか分からないけどとにかく普通じゃない。クレイジーだ!」

って。フロリダ???どうしてテーマパーク?しかもピッツバーグに飛行機が落ちてフロリダが?




次に外に出たときは、まさに街中が大パニックでした。
さっきの市バス停乗り場を見ると、アジア旅行とかで見るような
明らかにもう乗れないのにしがみついてバスに飛び乗る!みたいな状態になっていました。
不謹慎だけど パニック映画みたい・・・って思いました。
警察もいっぱい色んな所で見るしさすがに恐怖を感じました。



この時、既にWTCに飛行機が激突した映像がもうTVで流れてたんじゃないかなと思います。
そしてこの近く、ピッツバーグでもハイジャックされた飛行機が墜落したから
街中が大パニックだったんだと。



よく分からないけど国家規模の何かが起きている、今のうちに泊まる所を見つけないと、と次第に私達もそわそわ。



大きな川を挟んでいるしメトロが動いてないからもうユースには戻れない。
移動手段がないから近場で宿を見つけなきゃいけないけど、既に殆どが閉まっている。
あ、もしかして、本当に今日泊まる所ないかも?とうろうろしてると
一人の警察官に

「家に帰りなさい!」

と声をかけられました。自分の体とと同じくらいの大きさのバックパック背負って
どう見ても旅行者の私達に、
本当に「GO HOME!」って・・・
「旅行者です!どこも閉まってて宿がない!」というと
近くにまだ受け付けてるホテルがあるから着いて来なさい、と。




着いたら結構いいホテル。
私達バックパック姿なんだけど・・・・いいのか?と思うけどとにかくチェックイン。
チェックインをすませてロビーに目をやるとTVのまわりに5、6人ほど人がいました。

気になりつつも急いでエレベータに乗って部屋に入り、荷物をほどき・・・
友達はベッドに転がってTVをつけ、私はのんきにアイロンあるから洗濯し放題!とバスルームに。
(まだ事態の大きさが分かってなかったので・・)




そうしたら友達が大声で「ちょっときて!早く!!!!」と。




その時、はじめて何が起こっていたかを知りました。
時間は昼前か・・・確かそのくらいだったと思います。

必死にCNNを見ました。同じ映像ばかりが流れていて、そしてすぐに気付きました。
これってもしかしておとといまでいたマンハッタン。・・・WTCだ!って。

信じられませんでした、だって現実じゃないみたい。
嘘みたいな映像が何度も何度も流れていて。
字幕も出ていて飛行機2機がハイジャックされてWTCに特攻して~~~と。

じゃあこのピッツバーグの飛行機も?と必死にニュースを見るけど
TVでは激突のシーンとノースタワーの方の崩壊ばかりが映像で流れていました。


つい数日前までいた所が、あのWTCがまさかこんなことになるなんて。


あの時WTCを勧めてくれた親切なレストランのウェイターとか
展望台に行くか聞いてきたWTCの警備の人とか
ビルのまわり歩いてた人とか、ストリートでドーナツ売ってたおじさんとか、
街ですれ違った人とか、みんなみんなどうなったんだ?????


考えると足がガクガクしました。
数日前のこの時間帯に私たちはそこにいたからです。
一通りニュースでその時に分かる状況を把握してからはショックすぎてTVはつけたままだけど
映像は見れませんでした。



なんとなく部屋にいたくなくてロビーまで降りるとさっきの人たちがまだTVを見てました。
みんな海外からの旅行者みたいで私もそこに混じりました。
みんな信じられないといいながらずっとTVを見つめてました。
日本から来たというと「自宅に電話した?電話繋がらないでしょ、もう何時間も繋がらないんだ」と。


その時、自宅に置いて来た「10日あたりNYうろうろ」と書いた予定表のことを思い出し
日本もこれはニュースになってるだろう、電話しなきゃ!とあわてて部屋に戻りました。
案の定、電話は全く繋がりません。時間をおいてかけるけどむりでした。






明けて12日。
グレハンまで走って行って確かめると、今日はもう運行していました!

バッファロー行きの時間を確認して、ホテルに戻ってチェックアウト。
といっても、やっぱりまだ何か影響があるのか12:45発のバスがなんと夕方の18:40発。


近くに長距離列車の駅もあるから列車にしようかとも思ったけどなんとなく怖くてやっぱり乗れない。
駅で一人の日本人と出会って、グレハンの乗り方を聞かれて少し話をしました。
その人はJFケネディ発でシカゴまで行くはずだったけど空港が閉まってるから困ってたと言ってました。
みんなみんな、旅行者もみんなうろうろ、困ってました。情報が分からない不安と一緒に。

クリーブランド経由のバスでクリーブランドから自宅に電話するけどまだ繋がりませんでした。
ようやくバッファローに着いたときは21:30。
そこからカナダ側ナイアガラ行きのバスにまた乗って・・・
バスで国境を超えるからバスの中に税関の人と麻薬犬が入ってきてパスポート見せて審査。
かなり念入りに犬で車内を調べていました。


どこに行くのか、何故行くのか、何日行くのか、どこに泊まるのか?
ロスから来てるけど陸地はどうやって移動してここまで来たのか、
日本への帰国はいつか、このVISAはなんだ、・・・・
あんなことがあった翌日だから、物凄くチェックが細かかったです。


結局ナイアガラのユースに着いたら夜中の0時で、ユースは閉めるギリギリでした。




そしてユースからまた自宅に電話。ようやく繋がりました!

家族は電話口で泣いてました。
元気だし今カナダだから心配ないよ、電話はずっと繋がらなかったんだよ、ごめん、
っていうと、また泣いて、よかったよかったと繰り返してました。
あの「10日あたりNYうろうろ」の予定表のせいで、
てっきりあの日もNYにいると思っていたらしく物凄く心配していました。
数人の友達からも何回も電話があったらしく、
NYのユースまで電話をかけて宿泊名簿に名前があるか確かめてくれたらしくて・・・
親はこちらの領事館にまで電話して行方不明日本人に名前を載せていたらしいです。

そんな!!!と思ったけどどうだろう。私が逆の立場でもやってたと思う。
そしてもう夜中だから友達には明日電話かける、と言って切りました。
電話を切ってから急に気が抜けたのか、私も泣いていました。


翌日、食べるものも何にもなくってとにかく外へ。
おなかがすいてモーニング?みたいなのをしてるところに入って食事をしているときに、
そばに座ってたおじさんの読んでる新聞が目に入りました。
あの悲惨なWTCの写真と、「報復」「戦争」と物凄く大きな字で書かれていました。


うそだ。戦争って????????


そして自分達も新聞を買おうと財布を見たとき
あ、もうここカナダだった、とカナダドルにまだ換金してないことに気付きました・・
(お店の人はよくあるよ、と笑ってアメリカドルで許してくれました)



そしてこんな時だけどナイアガラを観光。人も沢山いるし団体さんも沢山。
滝を見てるとあの惨事がここでは嘘のように感じられるくらい。

友達が、ゆんがかけたならうちのお母さんにも連絡いってるよ、
とまだ電話をかけてないので、一喝してから無理やり電話をかけさせました。


その夜、ユースの1ダラーPCでネットをしていると一人の日本人が来て物凄く色々話をされました。
なんだかんだと思いっきり脅かされて(気持ちはわかるけどやめて欲しい)、
その夜は何度も怖い夢を見ては目を覚ましました。







親があちらの日本領事館にもう名前を言って連絡してるから力になってくれるはず、
とにかくトロントに行きなさい!と言うし、ナイアガラも滝しか見るものがないからトロントへ。



そして、知りました。特別規制がかかっていて
一度アメリカから出たらしばらくは外国人旅行者はアメリカに入国不可能になっていました。


私達はナイアガラの後にNYまで戻り、そこからまたロスへ周遊パス(航空チケット)で飛んで
ロスから日本に帰国する予定でした。

でももうアメリカに入れない。
ロスまで戻れないと言うことはロスからの帰国の便にも乗れない。


そうして航空券2枚はただの紙切れになりました。







というか、JFケネディってまだ閉鎖してるんじゃないか?
事前に取ったユースにも全部キャンセルの電話をしなきゃいけない。
やることがいっぱいで、滝を見てもやっぱりどこか落ち着かないし、
気を抜いたら気持ちは堕ちそうで。

とりあえず友達と相談して、周遊パスのキャンセルからしようということになり。
ところが繋がらない。誰も出ない。こんな時だからか?
仕方なく日本の周遊パスを代理でとった会社に電話したら、

”JFケネディ空港はしばらく閉鎖です。
キャンセルと帰国の航空券についてはお客様で何とかしてください”てな内容。

あてにしてなかったけど言い方がものすごくむかついた・・・
現場を見ていないから仕方ないかもしれないがどこまでもヒトゴト。

そして言われたところに電話をしたら、保険の払い戻しでおいつかないから
キャンセルは承諾したが払い戻しはできません、と。(本来なら一部戻るはずだった)
なんだその理由は! さすがアメリカ。 こういう事がよくある。もう慣れっこ。
非常事態だし文句は言えない。生きてるだけ助かった、と、思う。(ほんとそうだと思う)


そして友達と二人、ここまで来たし領事館に名前まで言ってるし、行くか・・・と行きました。
綺麗な高層ビルの33階で、パッ!とエレベーターのドアが開いたら目の前に日本の警察のマークが・・
(今思うと日本の国章です)

私達の親どおし、相談してここに電話してたみたいでなんでも相談にのってくれるって
言ってたけど、来てみたらなんのその・・・特になにをするでもなく聞くこともなく・・。
とにかく、親が行方不明日本人と連絡していたようですが無事です、
と告げてその下のJTBに入りました。実はこっちの方が気になってました。


地理がまったく分からないから周辺のマップもらおうよ!と入ると
先に日本人の親子がいて泣いていました・・

順番を待って、JTBのおばさんにマップをもらい、ちょっとお話しました。
とってもいい方で、ここで帰りのチケットも取れるけど個人で来てるなら
街の外資系会社で取ったほうがいいとか、一番早い便がいついつであと何席あって一日何便しかない、
その次はもう殆ど空きがないなど聞きたいことを全て迅速にあちらから調べてくれました。
(JTBトロント支店のあのオバサマは本当に素晴らしかったです。)


そして知ったんだけど、キャンセルになって待っている時、
こういう時は旅行会社の団体から先にうめていって個人は一番あとにまわすそうです。
(そりゃそうか?)


トロントでは、もう見るところないよ!というくらい足止めにあい、街でうろついてました。
トロントからやっと友達と連絡がつきました。電話口でおいおい泣いてくれてびっくりしました。
既に大学の後期が始まっていたのですが履修届けなど全部済ませてくれていました。本当に感謝。
大学の先生に電話をして、個人だから航空チケットなかなか取れないんだって、
欠席でカウントしないでね、というとなんと先生もこちらにいたらしく
「私は説得して帰ったわよ!あなた達何のために勉強してるの!」
と、ここへ来て説教されました。そりゃ先生はペラペラだろうさ。


ユースの1ダラーPCで沢山のメールをチェックしたり、街を意味なくうろついたり。
公園でボーっと人間観察したり、宿の受付の人と世間話をしたり・・
トロントでは何をしたのか?と疑問だけど
それでもあの恐怖のまま航空券がすぐに手に入りすぐに帰国していたら
私の脳裏には恐怖しか残らなかったような気がします。


トロントでは一見何もなかったかのように平和に見えて・・
だけど、すぐにテロの首謀者が公表されていたから
頭にターバンを巻いた人・人種、そして私たちのような個人での外国人旅行者は
空港などでははじめから別の列に並ばされました。
アメリカは事件の直後、間違いなく人種の壁を越えて一つになりました。
けれど実際はしばらくしてから、人種の壁は以前より高くなっていました。

私達は、陸地をどうして移動したのかをすごくしつこく聞かれました。
もう終了している留学時の学生VISAの用紙がパスポートに貼っていたのもあって、
これはいつ、どうしてかとか、もう終わってるかとか。見れば分かるのに。
空港の警備はただならぬ雰囲気でした。
ターバンを巻いている人は、その場でターバンまで取って調べられていました。
ターバンを巻いている人たちにとってあれは服を脱がされているのと同じなのでは・・?
しっかり警備しなくてはいけないけれどそういう光景を目の前で見ると凄く辛かったです。



何週間も予定をオーバーしての帰国でした。
帰りはカナダ系の飛行機で帰ったのですがびっくりするくらい人が乗ってませんでした。


日本に帰ってからのほうが情報が分かって、ことの大きさを理解したような気がします。
まだ帰国していないうちにあっという間に報復も始まり、本当にこうなってしまったんだと
平和ボケしている自分はただただ驚きと恐怖でした。
明日が絶対あるという保障はないと言うことも身を持って感じました。




まだ身元が分からなかったり、DNA鑑定で調べてると先日TVで見てショックでした。
10年たって、自分も10歳も年をとったからまた違う考え方をするかとも思ったけれど
結局あの時の日記を引っ張り出して読んでみてもあまり変わりはありませんでした。
怖いし、悔しいし、ショックだし。



一日一日を大事に生きなきゃと思いました。
何か起きてからでなく、
言いたいことがあったら後回しにしないですぐに言わなきゃと思いました。
それが本当にできるかは分からないけど、努力はすべきだと。






あれからもう一度あの場所にいってみようと思っているけど
結局一度も行けていません。
一度だけバスでNYを通り過ぎたけれどグラウンドゼロには一度も。

いつかもう一度、行きたい。






9月11日。

米同時多発テロで罪もない尊い命を落とされた多くの方々、
体や心に傷を負い、今も苦しんでおられる方々、
そしてそのご家族、友人の方々に心より追悼の意を申し上げます。




当日ピッツバーグメトロバスのトランスファー

ゆんブロ~One day..最高に輝くム~ンライッでee-yo!`?´*


この旅行の時とはまた別の友人が2002年の追悼式でもらってきてくれた栞。
下は2001年9月、事件数日前のWTCの写真。

ゆんブロ~One day..最高に輝くム~ンライッでee-yo!`?´*