相関図リニューアルじゃ!
いよいよ維新のど真ん中へ——。
幕末の英雄と美女たち、ここに集結しもした!
キャストポスタービジュアル
ちゃんとゆきりん写ってる
相関図にも
西郷園子
ソノ、園。生年月日不詳。西郷の弟・吉二郎の後妻。旧姓は仁礼(明治の記録に「仁禮平蔵妹」とある)。
宇和島藩・松根内蔵(まつね・くら)の「上海日記」に、上海で「仁礼平蔵」と懇話したとの記述があり、この仁礼平蔵は仁礼景範(かげのり)のこと。仁礼景範(平輔)は薩摩藩第二次留学生として慶応2年~4年に米国に留学(「仁礼景範渡米日記」をのこす)、明治17年子爵、明治25年海軍大臣。ただ、西南の役の最後に城山で捕縛されて銃殺された薩軍副官の仁礼景通ほか鹿児島城下に仁礼姓は多く、園子の仁礼家は不詳。
慶応3年(1867)2月、吉二郎と結婚。推定25歳。鹿児島城下上之園通町(現・鹿児島市上之園町)の西郷隆盛の家に入る。吉二郎には、先妻マスの遺した3歳のみつ(美津)と2歳の勇袈裟(ゆうげさ)がいた。同居している西郷の妻・糸子は23歳、糸子の長男・寅太郎が生後半年。1月に明治天皇が践祚、西郷が討幕の策を練っていた時期である。
慶応4年(明治元年)8月14日(1868年9月29日)、戊辰の役(戊辰戦争)に出征した吉二郎が新潟での戦いで負傷し、柏崎の病院で亡くなる(36歳)。園は吉二郎とはわずか1年半の結婚生活で実子もなかったが、そのまま西郷家に留まり、先妻が産んだ2人の子を育てる。
このとき西郷も北陸出征軍総差引(総司令官)として柏崎に来ていたが、吉二郎の死に目にはあえなかった。普段から周りに「私の兄です」と紹介するほど信頼していた吉二郎の死を聞き、西郷は大声で泣き、ちょんまげを切って頭を丸めた(のち明治5年末に島津久光が発表した西郷詰問14カ条には、このときの藩に無断での断髪を責める一節もある)。吉二郎の死のあと西郷は庄内藩へと向かい、降伏した庄内藩に寛大な処置をとり、後々まで深い関係を結ぶこととなる。
明治2年7月(1869年8月)、西郷家と一緒に、西郷が購入した武村(現・鹿児島市武町)の屋敷に移る。
明治3年閏10月14日(1870年12月6日)、西郷のはからいにより戸籍上、西郷吉二郎家として分家し、勇袈裟(6歳)が当主となって隆準(たかのり)と改名。
明治8年(1875)秋、西郷家と日当山(ひなたやま)温泉に3週間逗留。みつ12歳、隆準11歳。西郷家は西郷47歳、糸子32歳、寅太郎9歳、午次郎5歳、酉三2歳。
明治9年(1876)、みつが鹿児島に開校したばかりの女学校に入学。
明治10年(1877)2月29日、西南の役で政府軍が鹿児島に上陸したため、西郷家の子供たちを連れて、武村の西郷屋敷(武屋敷)から永吉村(現・日置市吹上町)の坊野(ぼうの)へ避難する。西郷糸子は遅れて5月に避難している。
同年8月、西別府村(現鹿児島市西別府町)の山中にある西郷家の野屋敷に移る。美津14歳、隆準13歳。
西南の役終戦後は再び武村に戻り、共に夫を亡くした糸子、松子と暮らす。
明治18年(1885)1月、隆準(20歳)が寅太郎のドイツ留学に同行。
明治23年(1890)7月2日、西郷家に同居していた川口雪篷が亡くなる(71歳)。
明治29年(1897)11月13日没。推定55歳。
同年、西郷の妻・糸子はこの前後に東京に居を移している。
園子の墓は、大正11年(1922)8月に南林寺墓地から改葬された鹿児島市常盤町の西郷家墓地にある。墓銘は「西郷園子之墓」。
戊辰の役で戦死した吉二郎は、金谷山(かなやさん)墓地(新潟県上越市)に葬られた。鹿児島の西郷家墓地に「西郷吉二郎隆廣之墓」と刻まれた墓があるが、死の1カ月後に届いた吉二郎の遺髪を納めた墓石を南林寺から移したものである。新潟・金谷山にあった吉二郎の墓「(薩藩)西郷吉二郎隆廣神霊」は大正6年に取り壊され、「(戊辰)薩藩戦死者墓」に合祀(ごうし)された。
西郷隆準(明治34年6月24日没)の墓は、東京・青山霊園にある。
西郷みつは足立家に嫁ぎ、7人(3男4女)の子供をもうける。夫・足立盛一の祖父は島津氏御殿医(江戸邸定府)の足立踏恕、父は医師の足立梅渓。梅渓は元治元年(1864)に薩摩藩が開校した開成所(洋学講習所)、明治3年~10年にイギリス人医師ウィリス(西郷の意向による)が運営した鹿児島医学校(病院の通称は赤倉)の教官で、薩摩藩軍医。菊次郎の足の治療をしたといわれる。足立みつは昭和18年(1943)、80歳で没。