日本と支那との付き合いは長い。が、古代から中世にかけて、その交流は人的交流ではなく主に書物による交流であり、その書物に書かれているのは支那に「あるもの」よりも、「あるべきもの」を記していることが多い。つまり、現実には支那にないもの支那の「夢」を書いたものだった。

 食人は野蛮で残酷な行為である
 食人は未開人の風習で、文明人はやらない
 シナ文明のコアは儒教・道教である

 こういった「常識」が根底から覆される本である。



 このグロテスク・リアリズム、中国史の本質は人肉グルメ。

菅原道真はなぜ遣隋、遣唐使の中止を進言したのか?

 これはまさに人を食ってきた中国の歴史の本質をえぐり出したグロテスク・リアリズムの文明論である。以下、宮崎正弘氏の書評を引用する。

 中国の歴史は平均すると、十八年ごとに戦争、内乱による飢饉が発生したため、共食いが起こった
 人肉市場があり、それは闇市ではなく公認市場だった。人肉の値段は豚や犬肉より安く、また人間を食肉として飼育し、屠殺する養人場があった。処刑された罪人の肉も払い下げられたうえ、平穏な時代でも食人の習慣は絶えなかった。味方同士の共食いもあり、最大の好物は子供の肉だった。

軍隊は補食として人肉を食べた
三国志演義でも劉備玄徳を厚くもてなすため、山奥に潜伏していた嘗ての部下が妻を殺して馳走する場面がある。
 日本人は卒倒するか、吐瀉するかだろうが、しかし劉備玄徳は部下のその忠節ぶりに感傷に浸るのである。水滸伝には人肉饅頭がでてくる。
 数え上げればきりがないのでこの辺で止めるが、最近も胎児のスープをグルメで味わう闇のレストランが広東省にあることを写真入りで多くのメディアが暴露した

 菅原道真はなぜ遣唐使の中止を進言したのか?
 水運路が安定せず、海上交通に難があり、コストがかかりすぎた等とする理由付けが戦後の解釈の主流である。本当のことをなぜ言わないのか?

 第一は隋唐から学ぶべきことがなくなり、遣唐使は意味を失ったからである。たしかに遣唐・隋使によって、日本にもたらされたのは唐風文化。建築から彫刻、絵画、仏典などが影響をあたえたことは事実だろう。ところが隋の衰退により文化は荒廃を極めていたしかも日本が礼を尽くしての外交使節も、中国側は「朝貢」に来たくらいにしか認識していなかった。

  第二は遣唐使、遣隋使より遣日使のほうが人数が多くかれらが日本に来て驚いたのは日本文化のすばらしさ、要するに帰国したくなくなったというポイントが見逃されてきた。 日本では国風文化がひろまり、やがて  平かな、カタカナが発達し、源氏物語など世界一級の文学が完成した。もはや隋唐から輸入するべき政治システムも文化文明も尽きていた

 第三の理由は人肉文化にほとほと嫌気がさしたからである

 そして本書は次のようなことを教えてくれる。

 遣唐使停止の決定を菅原道真がしたころ、長安を訪れたアラビア商人は『シナ・インド物語』を書いて、役人どもが地方に派遣されると「その地域の人間をことごとく食い尽くした」と書き残した。
 『唐書』には「城内で逃げ遅れて人質になった者は万に達し、餓死者は日に数人ずつ出た(中略)。そのうちに殺し合い、人肉を食べるようになった」、「城内ではたがいに子供を取りけえて食用にした」とある。
 宋代の『鶏肋編』には「米価が暴騰した。カネがあっても食料が手に入らなくなったため、盗賊や兵隊ばかりか一般民衆までもが殺し合い、人肉を食べるようになった。そして街中で販売されるようになった。人肉は犬や豚よりも安く、肥えたものでも一体が十五貫(コメ三丈分)にすぎなかった」と書かれた。
 『資治通鑑』にも「(902年)唐の西京である鳳翔城の人肉市場では、一斤(600グラム)が百銭に値し、犬の肉は五百銭に値した」と記されている。

 菅原道真の決定は正しかったのだ