"縄文人骨91体 ルーツ解明に期待"
日本人はどこから来たのか。
この壮大なテーマの解明に 欠かすことのできない資料が、富山市の縄文時代前期の貝塚から出てきました。
貝殻の層の中に残されていた、91体の人骨。そして、土器や石器、 木製品など大量の出土品。
その分析を通じて、謎の多い縄文前期の人々のルーツや暮らしぶりが、 明らかになりつつあります。
6000年前の人骨が次々と
「ふだん骨を見ることなんてないのに、ここでは掘り下げるたびに次々と出てくる」
富山県文化振興財団・埋蔵文化財調査事務所の町田賢一さんは、
骨が多すぎて現場では個体数が把握できなかったと言います。
大量の人骨が見つかったのは、富山市にある「小竹(おだけ)貝塚」

北陸新幹線の工事に伴って2年がかりで発掘調査したところ、厚さが最大2メートルの貝殻の層が見つかりました。
今からおよそ6000年前、縄文時代前期の貝塚で、日本海側では最大級の規模だということです。
同じ場所に住居や墓も作られていたことも分かりました。
その後、確認された人骨は、少なくとも91体。
「貝の地面に貝で埋めていた」状態だったということです。
1万年以上にわたる縄文時代のうち、早期と前期は人骨の出土例が少なく、
これまで全国で確認されているのは、合わせておよそ80体です。
今回、1つの遺跡の調査だけで、その総数を上回ってしまいました。
犬の骨も、可能性の高いものも含め、21体も見つかっています。
なぜこれだけの量の骨が残されていたのか。
日本の土壌は酸性で、土に埋まった状態では多くは溶けてしまいます。
しかしここでは、貝殻のカルシウムが、骨を良好な状態で残してくれたのです。
◆縄文前期の基準資料に
人骨は、国立科学博物館人類研究部(茨城県つくば市)に持ち込まれ、詳しい調査が行われています。
形や大きさから、その人の年齢や性別、身長などを読み解きました。
91体のうち、身長の推定が可能だったのは29体。
推定身長の平均は、男性が159センチ、女性が148センチで、その後の縄文人とほぼ同じでした。
縄文時代を通じて身長が大きく変わっていないことを示す明確なデータが、初めて得られたということです。
DNA分析も行われました。
骨の細胞の中にあるミトコンドリアのDNAを分析して塩基配列を調べ、
その違いから「ハプログループ」と呼ばれるタイプ分けを行いました。
今回、ハプログループが判定できたのは13体で、最も多かったタイプは、 北海道の縄文時代人などに見られる「北方系」でした。
ところが次に多かったのは、東南アジアや中国南部に多く見られる「南方系」。
縄文時代早期の北陸では、「北方系」と「南方系」が混在していたのです。
一方、渡来系の弥生人や現代の日本人に多く見られるタイプは、
今回は出なかったということです。
人類研究部の溝口優司部長は、
「小竹貝塚の人骨は、日本人の形成過程を明らかにするうえで、縄文前期の基準となる」と高く評価。
「この人たちがどこから来たのか、ひいては日本人はどこから来たのか、
後世との関係はどうなのか、探っていきたい」と話しています。
◆他地域との活発な交流
小竹貝塚では、出土品の量の多さと多彩さも目を引きます。
土を袋に入れて持ち帰り、洗いながら細かな遺物まで調べた結果、
▽土器13トン、▽石器1万点、▽動物の骨などを使った道具や装身具2300点、
▽丸木舟などの木製品100点、などが確認されたということです。
出土品から見えてきたのは、他地域との活発な交流です。
土器は、関東や近畿の様式のものに加えて、東北の土器の特徴を持つものもありました。
さらに、九州など温暖な地域でしか採れない「オオツタノハ」という貝で作った アクセサリーも、日本海側の縄文遺跡で初めて見つかりました。
鮮やかな緑色をした「ひすい」は新潟産で、国内でも最古級の加工品だということです。
町田さんは「1つの遺跡に人骨も土器も木製品も残っている。そして貝塚、墓域、住居と、
3つを合わせた議論ができる。分からないことの多い縄文前期を理解するうえで、 1つの大きな材料になる」と、調査成果の意義を話していました。
小竹貝塚の発掘調査報告書は、来月中に刊行される予定です。
また国立科学博物館は、さらに1年かけて骨の形態などの分析を進め、
ルーツの解明に当たることにしています。
今回得られたデータを踏まえ、日本人のルーツや縄文時代を巡る研究がさらに進展する、
そんな期待が高まります。
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20140211/k10015167891000.html
(寄せられたコメント)
●弥生系が朝鮮半島であるかのような書き方だが、まったくのでたらめ。
ミトコンドリアに限定なのは女系遺伝だから。
百済滅亡前に日本から兵士を送った船で女性を日本に逃がしたので
ツングース系のミトコンドリアが日本に残った。
まともな男は当然祖国に戻って戦ったんだよ。
卑怯な在日と違って。
●でた、NHKのステマ
朝鮮半島から渡ってきた弥生人って、言っている時点で、この記事はデタラメ、ガセな。
+民なら、その程度は、すぐに気付けよ。
アフィやチョン工作員に騙されるのは、嫌儲民な。
ちゃんと説明してやるよ。
まず、縄文人と何か?弥生人とは何か?
それぞれ、その時代(縄文時代、弥生時代)に日本列島に住んでいた人々のことな。
で、その時代に住んでいた人々の骨格(骨)が遺跡から見つかったが、縄文時代と弥生時代の人々では違うということがわかった。
そこで、なぜ違うのかが、研究されるようになった。
結論をいえば、同じ民族だということがわかった
(DNAで、ともにD型遺伝子民族)。
骨格が違うのは、食べ物が変わったことと、
弥生人には世界各地から渡来してきた人々の血が少し交わっていたからという結論に。
● まず、弥生人 ≠朝鮮人
DNA的に、弥生人はネパール、モンゴル系の民族で、中国人、朝鮮人とは別種の民族
縄文人は、北海道のアイヌ人、沖縄人、日本の山岳に住むマタギ系の人たちに多いDNA
2-3万年前に日本列島に住み着いた縄文人
2000-3000年前に、中国江南地方・朝鮮半島南部から日本に移住した倭人→弥生人
これが日本列島で交じり合って、現日本人を形成している。
●倭人が韓国の一部に住んでいたのであって、古代韓国人≠倭人
>>
南鮮の地は倭人が住んでいて、支那の流民が入ってきてるんだな。
漢武帝の北鮮の地に仕掛けた植民地戦争知ってるだろ?
新羅時代の南鮮人も一部の王朝人は墓を縄文人と同じ朱で染めている。
>>
朱を扱うためには水銀の産地が必要
四国と紀伊半島
●越や呉など揚子江流域から、
海路で黒潮に乗って直で日本に来たって話もあるね
>>
南方といっても中国大陸の江南地方も入るんじゃないか。
あの辺の人は、北方からの南下種族に追われて、雲南、 東南アジア、それと日本に渡ったグループがいると思う。
水稲も江南からだし、海流に乗ると日本に来るのは案外 楽だったかもしれない、と思う。
縄文人も弥生時代の渡来人も江南とのつながりがあり、
中国大陸での人種移動が 日本に来る人種の変化になっているのではないか。
● 瓊瓊杵尊のY染色体はハプログループD2であると推測される。
これは瓊瓊杵尊の子孫によるデータに基づくものであり、瓊瓊杵尊の御陵である可愛の山陵(宮内庁所管)の学術調査が出来ないため確定的な結果ではない
● 大和朝廷から正式に領地をあてがわれて定住
北関東の古代韓国人はその前の時代の榛名山大噴火で一旦荒廃した土地に開墾に入っている
当時の韓国人(からくにびと)は先進的農業技術を持っていたことが記されている
>>
楽浪郡や帯方郡の支那人じゃね?
つか朝鮮半島は寒すぎて米が作れないわな。
朝鮮人が米作るようになったのは、日本人が品種改良した稲を「日帝強占期(笑)」に朝鮮半島に持ち込んだから。
朝鮮人は日本人に稲作を「教えてもらった」のよ?
30年も前から言われてるんだがね。
朝鮮ガッコじゃそう教えるん?
>>
その頃から日本へ蜜入国してくる奴らが増えてきて困った朝廷が武蔵野に移住させたんだよw
あんな都から離れたなにもない僻地に移住させられるのは、どういうことか判るだろ
まあかわいそうだから「与えられた」というように勝手に解釈しとけばいいよw
>>
あー、日本に朝貢してた三韓ねw
● そもそも日本の大和朝廷の古墳と同形の日本型古墳が遅れて朝鮮に出現する
つまり日本の貴族・軍人が朝鮮に渡ったのが正解
おそらく百済を保護下に置いた時期の少し前に日本から朝鮮に渡ったのだろうな
(私の感想)
ちゃんと調査しているような印象を国民に与える記事ですが、
まだまだ古代史の真相を隠してますね!
>東南アジアや中国南部に多く見られる「南方系」
これは恐らく弥生人のことでしょうね(^_^;)
そして、弥生人の本当のルーツを隠しています。
コメント欄にも出ていますが、
弥生人とは、縄文人に倭人が混血したもの。
倭人とは、中国の長江文明の子孫。
春秋時代に戦争に負けて、
多くが朝鮮半島や東南アジアに避難していたようです。
呉や越の人達ですね。
>最も多かったタイプは、 北海道の縄文時代人などに見られる「北方系」
これは恐らく、縄文人を指しているのでしょう。縄文人とは、言うまでもなく、日本原住民です。
このように、「北方系」「南方系」だとか、
「縄文人」「弥生人」などという言葉を使うのは、
日本人の本当のルーツを歪め、
真相をごまかすのに、とても有効な手段です。
曖昧な用語を使用することで、
日本人のルーツを、DNAという科学的な手段をもって考えられないように洗脳しています。
日本人はどこから来たのか。
この壮大なテーマの解明に 欠かすことのできない資料が、富山市の縄文時代前期の貝塚から出てきました。
貝殻の層の中に残されていた、91体の人骨。そして、土器や石器、 木製品など大量の出土品。
その分析を通じて、謎の多い縄文前期の人々のルーツや暮らしぶりが、 明らかになりつつあります。
6000年前の人骨が次々と
「ふだん骨を見ることなんてないのに、ここでは掘り下げるたびに次々と出てくる」
富山県文化振興財団・埋蔵文化財調査事務所の町田賢一さんは、
骨が多すぎて現場では個体数が把握できなかったと言います。
大量の人骨が見つかったのは、富山市にある「小竹(おだけ)貝塚」

北陸新幹線の工事に伴って2年がかりで発掘調査したところ、厚さが最大2メートルの貝殻の層が見つかりました。
今からおよそ6000年前、縄文時代前期の貝塚で、日本海側では最大級の規模だということです。
同じ場所に住居や墓も作られていたことも分かりました。
その後、確認された人骨は、少なくとも91体。
「貝の地面に貝で埋めていた」状態だったということです。
1万年以上にわたる縄文時代のうち、早期と前期は人骨の出土例が少なく、
これまで全国で確認されているのは、合わせておよそ80体です。
今回、1つの遺跡の調査だけで、その総数を上回ってしまいました。
犬の骨も、可能性の高いものも含め、21体も見つかっています。
なぜこれだけの量の骨が残されていたのか。
日本の土壌は酸性で、土に埋まった状態では多くは溶けてしまいます。
しかしここでは、貝殻のカルシウムが、骨を良好な状態で残してくれたのです。
◆縄文前期の基準資料に
人骨は、国立科学博物館人類研究部(茨城県つくば市)に持ち込まれ、詳しい調査が行われています。
形や大きさから、その人の年齢や性別、身長などを読み解きました。
91体のうち、身長の推定が可能だったのは29体。
推定身長の平均は、男性が159センチ、女性が148センチで、その後の縄文人とほぼ同じでした。
縄文時代を通じて身長が大きく変わっていないことを示す明確なデータが、初めて得られたということです。
DNA分析も行われました。
骨の細胞の中にあるミトコンドリアのDNAを分析して塩基配列を調べ、
その違いから「ハプログループ」と呼ばれるタイプ分けを行いました。
今回、ハプログループが判定できたのは13体で、最も多かったタイプは、 北海道の縄文時代人などに見られる「北方系」でした。
ところが次に多かったのは、東南アジアや中国南部に多く見られる「南方系」。
縄文時代早期の北陸では、「北方系」と「南方系」が混在していたのです。
一方、渡来系の弥生人や現代の日本人に多く見られるタイプは、
今回は出なかったということです。
人類研究部の溝口優司部長は、
「小竹貝塚の人骨は、日本人の形成過程を明らかにするうえで、縄文前期の基準となる」と高く評価。
「この人たちがどこから来たのか、ひいては日本人はどこから来たのか、
後世との関係はどうなのか、探っていきたい」と話しています。
◆他地域との活発な交流
小竹貝塚では、出土品の量の多さと多彩さも目を引きます。
土を袋に入れて持ち帰り、洗いながら細かな遺物まで調べた結果、
▽土器13トン、▽石器1万点、▽動物の骨などを使った道具や装身具2300点、
▽丸木舟などの木製品100点、などが確認されたということです。
出土品から見えてきたのは、他地域との活発な交流です。
土器は、関東や近畿の様式のものに加えて、東北の土器の特徴を持つものもありました。
さらに、九州など温暖な地域でしか採れない「オオツタノハ」という貝で作った アクセサリーも、日本海側の縄文遺跡で初めて見つかりました。
鮮やかな緑色をした「ひすい」は新潟産で、国内でも最古級の加工品だということです。
町田さんは「1つの遺跡に人骨も土器も木製品も残っている。そして貝塚、墓域、住居と、
3つを合わせた議論ができる。分からないことの多い縄文前期を理解するうえで、 1つの大きな材料になる」と、調査成果の意義を話していました。
小竹貝塚の発掘調査報告書は、来月中に刊行される予定です。
また国立科学博物館は、さらに1年かけて骨の形態などの分析を進め、
ルーツの解明に当たることにしています。
今回得られたデータを踏まえ、日本人のルーツや縄文時代を巡る研究がさらに進展する、
そんな期待が高まります。
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20140211/k10015167891000.html
(寄せられたコメント)
●弥生系が朝鮮半島であるかのような書き方だが、まったくのでたらめ。
ミトコンドリアに限定なのは女系遺伝だから。
百済滅亡前に日本から兵士を送った船で女性を日本に逃がしたので
ツングース系のミトコンドリアが日本に残った。
まともな男は当然祖国に戻って戦ったんだよ。
卑怯な在日と違って。
●でた、NHKのステマ
朝鮮半島から渡ってきた弥生人って、言っている時点で、この記事はデタラメ、ガセな。
+民なら、その程度は、すぐに気付けよ。
アフィやチョン工作員に騙されるのは、嫌儲民な。
ちゃんと説明してやるよ。
まず、縄文人と何か?弥生人とは何か?
それぞれ、その時代(縄文時代、弥生時代)に日本列島に住んでいた人々のことな。
で、その時代に住んでいた人々の骨格(骨)が遺跡から見つかったが、縄文時代と弥生時代の人々では違うということがわかった。
そこで、なぜ違うのかが、研究されるようになった。
結論をいえば、同じ民族だということがわかった
(DNAで、ともにD型遺伝子民族)。
骨格が違うのは、食べ物が変わったことと、
弥生人には世界各地から渡来してきた人々の血が少し交わっていたからという結論に。
● まず、弥生人 ≠朝鮮人
DNA的に、弥生人はネパール、モンゴル系の民族で、中国人、朝鮮人とは別種の民族
縄文人は、北海道のアイヌ人、沖縄人、日本の山岳に住むマタギ系の人たちに多いDNA
2-3万年前に日本列島に住み着いた縄文人
2000-3000年前に、中国江南地方・朝鮮半島南部から日本に移住した倭人→弥生人
これが日本列島で交じり合って、現日本人を形成している。
●倭人が韓国の一部に住んでいたのであって、古代韓国人≠倭人
>>
南鮮の地は倭人が住んでいて、支那の流民が入ってきてるんだな。
漢武帝の北鮮の地に仕掛けた植民地戦争知ってるだろ?
新羅時代の南鮮人も一部の王朝人は墓を縄文人と同じ朱で染めている。
>>
朱を扱うためには水銀の産地が必要
四国と紀伊半島
●越や呉など揚子江流域から、
海路で黒潮に乗って直で日本に来たって話もあるね
>>
南方といっても中国大陸の江南地方も入るんじゃないか。
あの辺の人は、北方からの南下種族に追われて、雲南、 東南アジア、それと日本に渡ったグループがいると思う。
水稲も江南からだし、海流に乗ると日本に来るのは案外 楽だったかもしれない、と思う。
縄文人も弥生時代の渡来人も江南とのつながりがあり、
中国大陸での人種移動が 日本に来る人種の変化になっているのではないか。
● 瓊瓊杵尊のY染色体はハプログループD2であると推測される。
これは瓊瓊杵尊の子孫によるデータに基づくものであり、瓊瓊杵尊の御陵である可愛の山陵(宮内庁所管)の学術調査が出来ないため確定的な結果ではない
● 大和朝廷から正式に領地をあてがわれて定住
北関東の古代韓国人はその前の時代の榛名山大噴火で一旦荒廃した土地に開墾に入っている
当時の韓国人(からくにびと)は先進的農業技術を持っていたことが記されている
>>
楽浪郡や帯方郡の支那人じゃね?
つか朝鮮半島は寒すぎて米が作れないわな。
朝鮮人が米作るようになったのは、日本人が品種改良した稲を「日帝強占期(笑)」に朝鮮半島に持ち込んだから。
朝鮮人は日本人に稲作を「教えてもらった」のよ?
30年も前から言われてるんだがね。
朝鮮ガッコじゃそう教えるん?
>>
その頃から日本へ蜜入国してくる奴らが増えてきて困った朝廷が武蔵野に移住させたんだよw
あんな都から離れたなにもない僻地に移住させられるのは、どういうことか判るだろ
まあかわいそうだから「与えられた」というように勝手に解釈しとけばいいよw
>>
あー、日本に朝貢してた三韓ねw
● そもそも日本の大和朝廷の古墳と同形の日本型古墳が遅れて朝鮮に出現する
つまり日本の貴族・軍人が朝鮮に渡ったのが正解
おそらく百済を保護下に置いた時期の少し前に日本から朝鮮に渡ったのだろうな
(私の感想)
ちゃんと調査しているような印象を国民に与える記事ですが、
まだまだ古代史の真相を隠してますね!
>東南アジアや中国南部に多く見られる「南方系」
これは恐らく弥生人のことでしょうね(^_^;)
そして、弥生人の本当のルーツを隠しています。
コメント欄にも出ていますが、
弥生人とは、縄文人に倭人が混血したもの。
倭人とは、中国の長江文明の子孫。
春秋時代に戦争に負けて、
多くが朝鮮半島や東南アジアに避難していたようです。
呉や越の人達ですね。
>最も多かったタイプは、 北海道の縄文時代人などに見られる「北方系」
これは恐らく、縄文人を指しているのでしょう。縄文人とは、言うまでもなく、日本原住民です。
このように、「北方系」「南方系」だとか、
「縄文人」「弥生人」などという言葉を使うのは、
日本人の本当のルーツを歪め、
真相をごまかすのに、とても有効な手段です。
曖昧な用語を使用することで、
日本人のルーツを、DNAという科学的な手段をもって考えられないように洗脳しています。