● 「あなたの敵と早く和解しなさい」
『人生を豊かにする法則』(フローレンス・S・シン著/PHP)のご紹介です。
『しばしば人は、他人の中に自分の欠点を見ることによって、それが治ります。人生というものは鏡です。私たちは、関わる人々の中に自分だけを見ているのです。
「あなたの敵と早く和解しなさい」(中略)この意味は、敵対すると思われる状況が良いものであると認めて、心を乱さずにいると、その状況は自然にそれ自身の重みで落ちていくということです。
不調和な状況というのは、その人自身の内にある何らかの不調和からやって来ます。そして不調和な状況に対する感情的な反応が何もなければ、その状況はその人の通り道から永遠に消え去ります。』
「不調和な状況に対する感情的な反応」という場合の「感情的な反応」とは、嫌悪、恐怖、逃避、といったものでしょう。一般的によく見られる状況に例えて考えてみます。
たとえば職場における上司と部下の関係です。上司との折り合いが悪くて部下が苦労をするという話はよく聞きます。ひとくちに言えば「上司が権力を笠に着て部下いじめをする」という構図です。
部下の立場からしますと、上司にいじめられることは「不調和な状況」ということになります。その「不調和な状況」を不満に思い、恐れ、逃げ出したい気持ちになることを、フローレンスは「感情的な反応」と表現しているのです。
そして、部下が上司のいじめに耐えかねて職場を替わる決断をします(=逃避)と、一時的にその「不調和な状況」はなくなりますが、次の職場でまた似たような状況を経験させられることになります。それはなぜでしょうか。
その理由は、自分が上の立場の人間からいじめられる原因についての気づきがないため、気づきを促す現象が形を変えて次々と降りかかるということです。
そういう人は過去または過去世において、自らが権力を笠に着て弱い立場の人をいじめた可能性も高いと思われます。その時点では、弱い立場の人の気持ちを全く理解することがなく、ただ自分の価値判断で目下の人物を「ダメな人間だ」と決めつけ、厳しく接していたということです。ですから、次の人生において逆の立場を経験することによって、弱い立場に置かれた人の気持ちに気づくような体験をすることになります。そのことが人の「身魂磨き」のために必要だからです。
それも神様の命令によって無理やりさせられるということではなく、自らが決意してそのような人生を選んでいるのですが、生まれたあとはその決意を忘れてしまって、つい不満や愚痴を口にすることにもなるのです。
結果には必ず原因があります。一般的に「因果応報」と呼ばれていますが、これこそが「蒔いた種を刈り取らなければならない」というカルマの法則です。「結果を見て、自分が作った原因に気づくこと」つまり「果実を見て自分が蒔いた種の種類に気づくこと」が身魂磨きの法則なのです。
ここでもう一度フローレンスの文章をご覧ください。
『 しばしば人は、他人の中に自分の欠点を見ることによって、それが治ります。人生というものは鏡です。私たちは、関わる人々の中に自分だけを見ているのです。』
自らに降りかかる「不調和な状況」の中に、もし他人が介在しているのであれば、その人の行為は必ず気づきのための反面教師と見るべきだということです。その人と同じ性格、同じ心の持ち方は自分の中にあるものだからです。それを気づかせ、改めさせるために、他人が悪役を演じて私たちに「不調和な状況」をつくりだしてくれているのだと考える必要があります。
実は、病気や怪我などのように人が介在しない「不調和な状況」にも、必ず気づきを促すための「因」が含まれているのです。そのことの説明はここでは省略しますが、要するに「自分の身のまわりに起こることにはすべて気づきを促す内容が含まれている」ということを肝に銘じていただきたいと思います。
要するに「自分に起こることはすべて(気づきのために=身魂磨きのために)必要なことばかりなのだ」と考える方が正しいということです。その上で、その「不調和な状況」と“和解する”ことが大切だとフローレンスは述べているのです。
ただし、先ほどの譬えの場合で「和解する」ということを「上司と和解する」というふうに狭い意味にとらえると、少し本旨と異なります。そうではなくて、「上司にいじめを受ける」という状況の中に自分の気づきのための意味が含まれていると考えて、それを嫌悪したり、恐れたり、逃避したりしようと思わないように、つまり、感情的な反応をしないように努力することが大切だということです。
平たく言えば、「上司にいじめられるという局面と和解する」ことを意味しています。「いじめられる」ことの中に気づきの芽が含まれていることを理解し、そのことを不満に思わず(意)、愚痴をこぼさず(口)、反発もせず(身)、自分にできる精いっぱいの努力をするという心の姿勢が必要なのです。それが身・口・意のコントロールによる身魂磨きの要諦ということになります。これによって過去のカルマの清算は進み、新しいカルマの“生産”を避けることができるということです。
そうやって、「権力を笠に着て弱い立場の者をいじめるのはよくないことだ」と気づき、自分が逆の立場に立ったときには決して同じような態度をとらないという自覚が生まれるならば、そこで「身魂磨き」の1レッスンが終了したことになります。
不思議なことに、自分がそのような心境になると、いつの間にか上司の態度が変わってきたり、あるいは上司または自分が人事異動によって職場を替わってしまうなど、その「不調和な状況」を終わらせる出来事が必ず起こるのです。このあたりは絶妙な天の配剤と見ることができます。
上司・部下の関係に限らず、嫁と姑の間のいざこざなど、人間関係における「不調和な状況」のほとんどがこれと同じパターンになっていると言ってよいでしょう。「人は自分を映す鏡」と言われる意味はそこにあります。「人のふり見て我がふり直せ」という格言も、全く同じことを表しています。
『人生を豊かにする法則』(フローレンス・S・シン著/PHP)のご紹介です。
『しばしば人は、他人の中に自分の欠点を見ることによって、それが治ります。人生というものは鏡です。私たちは、関わる人々の中に自分だけを見ているのです。
「あなたの敵と早く和解しなさい」(中略)この意味は、敵対すると思われる状況が良いものであると認めて、心を乱さずにいると、その状況は自然にそれ自身の重みで落ちていくということです。
不調和な状況というのは、その人自身の内にある何らかの不調和からやって来ます。そして不調和な状況に対する感情的な反応が何もなければ、その状況はその人の通り道から永遠に消え去ります。』
「不調和な状況に対する感情的な反応」という場合の「感情的な反応」とは、嫌悪、恐怖、逃避、といったものでしょう。一般的によく見られる状況に例えて考えてみます。
たとえば職場における上司と部下の関係です。上司との折り合いが悪くて部下が苦労をするという話はよく聞きます。ひとくちに言えば「上司が権力を笠に着て部下いじめをする」という構図です。
部下の立場からしますと、上司にいじめられることは「不調和な状況」ということになります。その「不調和な状況」を不満に思い、恐れ、逃げ出したい気持ちになることを、フローレンスは「感情的な反応」と表現しているのです。
そして、部下が上司のいじめに耐えかねて職場を替わる決断をします(=逃避)と、一時的にその「不調和な状況」はなくなりますが、次の職場でまた似たような状況を経験させられることになります。それはなぜでしょうか。
その理由は、自分が上の立場の人間からいじめられる原因についての気づきがないため、気づきを促す現象が形を変えて次々と降りかかるということです。
そういう人は過去または過去世において、自らが権力を笠に着て弱い立場の人をいじめた可能性も高いと思われます。その時点では、弱い立場の人の気持ちを全く理解することがなく、ただ自分の価値判断で目下の人物を「ダメな人間だ」と決めつけ、厳しく接していたということです。ですから、次の人生において逆の立場を経験することによって、弱い立場に置かれた人の気持ちに気づくような体験をすることになります。そのことが人の「身魂磨き」のために必要だからです。
それも神様の命令によって無理やりさせられるということではなく、自らが決意してそのような人生を選んでいるのですが、生まれたあとはその決意を忘れてしまって、つい不満や愚痴を口にすることにもなるのです。
結果には必ず原因があります。一般的に「因果応報」と呼ばれていますが、これこそが「蒔いた種を刈り取らなければならない」というカルマの法則です。「結果を見て、自分が作った原因に気づくこと」つまり「果実を見て自分が蒔いた種の種類に気づくこと」が身魂磨きの法則なのです。
ここでもう一度フローレンスの文章をご覧ください。
『 しばしば人は、他人の中に自分の欠点を見ることによって、それが治ります。人生というものは鏡です。私たちは、関わる人々の中に自分だけを見ているのです。』
自らに降りかかる「不調和な状況」の中に、もし他人が介在しているのであれば、その人の行為は必ず気づきのための反面教師と見るべきだということです。その人と同じ性格、同じ心の持ち方は自分の中にあるものだからです。それを気づかせ、改めさせるために、他人が悪役を演じて私たちに「不調和な状況」をつくりだしてくれているのだと考える必要があります。
実は、病気や怪我などのように人が介在しない「不調和な状況」にも、必ず気づきを促すための「因」が含まれているのです。そのことの説明はここでは省略しますが、要するに「自分の身のまわりに起こることにはすべて気づきを促す内容が含まれている」ということを肝に銘じていただきたいと思います。
要するに「自分に起こることはすべて(気づきのために=身魂磨きのために)必要なことばかりなのだ」と考える方が正しいということです。その上で、その「不調和な状況」と“和解する”ことが大切だとフローレンスは述べているのです。
ただし、先ほどの譬えの場合で「和解する」ということを「上司と和解する」というふうに狭い意味にとらえると、少し本旨と異なります。そうではなくて、「上司にいじめを受ける」という状況の中に自分の気づきのための意味が含まれていると考えて、それを嫌悪したり、恐れたり、逃避したりしようと思わないように、つまり、感情的な反応をしないように努力することが大切だということです。
平たく言えば、「上司にいじめられるという局面と和解する」ことを意味しています。「いじめられる」ことの中に気づきの芽が含まれていることを理解し、そのことを不満に思わず(意)、愚痴をこぼさず(口)、反発もせず(身)、自分にできる精いっぱいの努力をするという心の姿勢が必要なのです。それが身・口・意のコントロールによる身魂磨きの要諦ということになります。これによって過去のカルマの清算は進み、新しいカルマの“生産”を避けることができるということです。
そうやって、「権力を笠に着て弱い立場の者をいじめるのはよくないことだ」と気づき、自分が逆の立場に立ったときには決して同じような態度をとらないという自覚が生まれるならば、そこで「身魂磨き」の1レッスンが終了したことになります。
不思議なことに、自分がそのような心境になると、いつの間にか上司の態度が変わってきたり、あるいは上司または自分が人事異動によって職場を替わってしまうなど、その「不調和な状況」を終わらせる出来事が必ず起こるのです。このあたりは絶妙な天の配剤と見ることができます。
上司・部下の関係に限らず、嫁と姑の間のいざこざなど、人間関係における「不調和な状況」のほとんどがこれと同じパターンになっていると言ってよいでしょう。「人は自分を映す鏡」と言われる意味はそこにあります。「人のふり見て我がふり直せ」という格言も、全く同じことを表しています。