日本を代表する電機メーカーが軒並み巨額の赤字に陥っている。経営者たちは円高や欧州不況など外部環境のせいにするが、言い訳に過ぎない。トップが舵取りに失敗し、決断を間違えた瞬間があった。
■絶頂からあっという間に転落
'07年に社長となった片山幹雄さんの下で、シャープは大阪・堺市にあった新日鐵の工場跡地に液晶パネルと薄膜太陽電池の超巨大工場を新設しました。
「グリーンフロント堺」と名付けられたこの巨大工場に投じられた資金は、協力会社の分も合わせると実に1兆円。うち3800億円が第10世代と呼ばれる最新鋭の液晶パネル製造工場への投資でした。
液晶ディスプレイの性能と価格を決定する大きな要因は、いかに大型のパネルを作れるかです。堺工場は、40~60インチの大型ディスプレイの市場が立ち上がることを予測して建設されたものでした。三重県・亀山工場で成功した、液晶ディスプレイからテレビまで一貫して生産する「垂直統合」モデルを、更に進化させた「究極の垂直統合工場」でした。
それから4年---。パナソニックにソニー、そして私の古巣であるシャープは、今年、社長交代に踏み切りました。いずれの会社も巨額の赤字に対して責任を取ったものですが、赤字の主な原因は薄型テレビ事業での韓国企業に対する敗北です。
2011年第4四半期における薄型テレビの収益における世界シェアは、トップが韓国・サムスン電子の26・3%、次いで韓国・LG電子の13・4%。日本勢はソニーが3位の9・8%、4位パナソニック6・9%、5位シャープ5・9%なので、3社合計でサムスン1社に及ばない状況です。
テレビ事業が苦しいのは日本企業だけではありません。急激な価格低下により多くのメーカーが赤字と言われていますが、このまま競争が進めば韓国勢だけが勝ち残り、日本メーカーは早晩市場から姿を消してしまうかも知れません。
そうした苦境を反映し、パナソニックの津賀一宏新社長は「もはやテレビは中核事業ではない」とおっしゃいました。
しかし私はそうは思いません。テレビは、各家庭に最低1台以上は普及し、家族がその前で多くの時間を共有するという他には例のない電気製品です。家電メーカーにとってテレビはこれからもキーとなる製品であり続けるはずで、パソコンやゲームに置き換わるようなものではありません。
ただ、国内メーカーがそこまで追い込まれているのも事実です。では、なぜ国内メーカーの薄型テレビがほんの数年でこれほどの苦境に陥ったのか。その失敗の本質を探るには、液晶ディスプレイと液晶テレビ、それぞれの敗因について分析しなければなりません。まず第1の液晶ディスプレイでの最大の敗因は、「投資戦略の失敗」に行き着きます。
■独自技術を徹底的に隠す
中田行彦氏(65歳)。シャープで長年、液晶や太陽電池事業に携わった技術者でシャープアメリカ研究所研究部長も務めた。現在は立命館アジア太平洋大学で技術経営を研究・教育するアジア太平洋イノベーション・マネジメント・センター長。
電機メーカーの基幹であるテレビ事業で、どうして日本勢は海外に負けたのか。中田氏に聞いた。
薄型テレビのディスプレイで主流となっている液晶パネルについて、1998年から2003年までのこの事業の「営業利益と設備投資額」の関係を見ると日本勢の失敗は一目瞭然です。
日本のメーカーの行動原理は、「利益が出た翌年には設備投資を行うが、赤字になったら絞る」というもので、リスクを嫌うサラリーマン社長的な発想でした。
それに対して韓国メーカーは、営業損益の状況にかかわらず安定的に設備投資をしてきました。特にサムスン・グループでは、李健熙会長が長期的なビジョンに基づき、液晶事業に集中投資していました。
同じく台湾勢の投資姿勢も戦略的で、'03年の台湾の液晶メーカーの営業利益は500億円程度でしたが、その年の設備投資額は実に5000億円を超えていた。しかも、韓国勢や台湾勢が設備投資をして建設した工場は、第5世代と呼ばれる当時最新鋭の工場でした。
こうした投資戦略の違いは、シェアに如実に表れました。'97年には日本は液晶で約80%のシェアを握っていましたが、'06年には12%へと急落したのです。これがまさに、日本の家電メーカーのほとんどが、薄型テレビ向け液晶ディスプレイの競争から転げ落ちた瞬間でした。
そうした中で、日本で唯一気を吐いていたのが実はシャープでした。'98年に社長になった町田勝彦氏が「'05年にはシャープのテレビをすべて液晶にする」という明確なビジョンを打ち出したのです。
また、シャープはアモルファスシリコン薄膜を利用した太陽電池事業に取り組んでいたのですが、これが失敗に終わっていました。ただ、太陽電池の薄膜技術は液晶の薄膜トランジスタ技術に非常に近いものがあります。そこでアモルファスシリコン薄膜の技術者を液晶事業に大量に振り向けた。私もその一人ですし、前社長の片山幹雄さんもそうでした。つまり薄膜太陽電池の失敗を液晶の人材育成・供給に活かしたのです。
ただその私からしても、「ブラウン管テレビをすべて液晶に置き換える」という当時の町田社長のビジョンは、「さすがに無理だ」と思いました。液晶テレビを製品化しても、ブラウン管テレビに比べ価格が5倍ほどはする時代でしたから。
しかし町田社長のビジョンは当たりました。'99年に世界初の20型の液晶テレビを発売すると、'02年には三重県・亀山に第6世代という大型液晶パネル工場を新設すると共に、液晶テレビの組み立て工場をもつ「垂直統合」モデルを取りました。'06年には第8世代の亀山第2工場も稼働させました。
亀山の工場は韓国や台湾のライバルにキャッチアップされないために、液晶パネル工場内の立ち入りを制限したり、独自技術は特許化せずに工場内で秘匿したりという「ブラックボックス戦略」を取りました。ただ液晶テレビの組み立ては「請負」に出すなど、クローズドにするところとオープンにするところを分けた戦略を取っていました。その結果、「亀山工場製」と工場名がブランドになるほど、薄型テレビは大ヒットし、シャープの業績を飛躍的に伸ばしたのです。
ではこの間、他の国内家電メーカーはどうしていたのか。ソニーは、フラット型ブラウン管テレビ「ベガ」での成功体験から、独自の平面ディスプレイを研究・開発しませんでした。これは技術経営上、大きな問題でした。
■絶頂からあっという間に転落
'07年に社長となった片山幹雄さんの下で、シャープは大阪・堺市にあった新日鐵の工場跡地に液晶パネルと薄膜太陽電池の超巨大工場を新設しました。
「グリーンフロント堺」と名付けられたこの巨大工場に投じられた資金は、協力会社の分も合わせると実に1兆円。うち3800億円が第10世代と呼ばれる最新鋭の液晶パネル製造工場への投資でした。
液晶ディスプレイの性能と価格を決定する大きな要因は、いかに大型のパネルを作れるかです。堺工場は、40~60インチの大型ディスプレイの市場が立ち上がることを予測して建設されたものでした。三重県・亀山工場で成功した、液晶ディスプレイからテレビまで一貫して生産する「垂直統合」モデルを、更に進化させた「究極の垂直統合工場」でした。
それから4年---。パナソニックにソニー、そして私の古巣であるシャープは、今年、社長交代に踏み切りました。いずれの会社も巨額の赤字に対して責任を取ったものですが、赤字の主な原因は薄型テレビ事業での韓国企業に対する敗北です。
2011年第4四半期における薄型テレビの収益における世界シェアは、トップが韓国・サムスン電子の26・3%、次いで韓国・LG電子の13・4%。日本勢はソニーが3位の9・8%、4位パナソニック6・9%、5位シャープ5・9%なので、3社合計でサムスン1社に及ばない状況です。
テレビ事業が苦しいのは日本企業だけではありません。急激な価格低下により多くのメーカーが赤字と言われていますが、このまま競争が進めば韓国勢だけが勝ち残り、日本メーカーは早晩市場から姿を消してしまうかも知れません。
そうした苦境を反映し、パナソニックの津賀一宏新社長は「もはやテレビは中核事業ではない」とおっしゃいました。
しかし私はそうは思いません。テレビは、各家庭に最低1台以上は普及し、家族がその前で多くの時間を共有するという他には例のない電気製品です。家電メーカーにとってテレビはこれからもキーとなる製品であり続けるはずで、パソコンやゲームに置き換わるようなものではありません。
ただ、国内メーカーがそこまで追い込まれているのも事実です。では、なぜ国内メーカーの薄型テレビがほんの数年でこれほどの苦境に陥ったのか。その失敗の本質を探るには、液晶ディスプレイと液晶テレビ、それぞれの敗因について分析しなければなりません。まず第1の液晶ディスプレイでの最大の敗因は、「投資戦略の失敗」に行き着きます。
■独自技術を徹底的に隠す
中田行彦氏(65歳)。シャープで長年、液晶や太陽電池事業に携わった技術者でシャープアメリカ研究所研究部長も務めた。現在は立命館アジア太平洋大学で技術経営を研究・教育するアジア太平洋イノベーション・マネジメント・センター長。
電機メーカーの基幹であるテレビ事業で、どうして日本勢は海外に負けたのか。中田氏に聞いた。
薄型テレビのディスプレイで主流となっている液晶パネルについて、1998年から2003年までのこの事業の「営業利益と設備投資額」の関係を見ると日本勢の失敗は一目瞭然です。
日本のメーカーの行動原理は、「利益が出た翌年には設備投資を行うが、赤字になったら絞る」というもので、リスクを嫌うサラリーマン社長的な発想でした。
それに対して韓国メーカーは、営業損益の状況にかかわらず安定的に設備投資をしてきました。特にサムスン・グループでは、李健熙会長が長期的なビジョンに基づき、液晶事業に集中投資していました。
同じく台湾勢の投資姿勢も戦略的で、'03年の台湾の液晶メーカーの営業利益は500億円程度でしたが、その年の設備投資額は実に5000億円を超えていた。しかも、韓国勢や台湾勢が設備投資をして建設した工場は、第5世代と呼ばれる当時最新鋭の工場でした。
こうした投資戦略の違いは、シェアに如実に表れました。'97年には日本は液晶で約80%のシェアを握っていましたが、'06年には12%へと急落したのです。これがまさに、日本の家電メーカーのほとんどが、薄型テレビ向け液晶ディスプレイの競争から転げ落ちた瞬間でした。
そうした中で、日本で唯一気を吐いていたのが実はシャープでした。'98年に社長になった町田勝彦氏が「'05年にはシャープのテレビをすべて液晶にする」という明確なビジョンを打ち出したのです。
また、シャープはアモルファスシリコン薄膜を利用した太陽電池事業に取り組んでいたのですが、これが失敗に終わっていました。ただ、太陽電池の薄膜技術は液晶の薄膜トランジスタ技術に非常に近いものがあります。そこでアモルファスシリコン薄膜の技術者を液晶事業に大量に振り向けた。私もその一人ですし、前社長の片山幹雄さんもそうでした。つまり薄膜太陽電池の失敗を液晶の人材育成・供給に活かしたのです。
ただその私からしても、「ブラウン管テレビをすべて液晶に置き換える」という当時の町田社長のビジョンは、「さすがに無理だ」と思いました。液晶テレビを製品化しても、ブラウン管テレビに比べ価格が5倍ほどはする時代でしたから。
しかし町田社長のビジョンは当たりました。'99年に世界初の20型の液晶テレビを発売すると、'02年には三重県・亀山に第6世代という大型液晶パネル工場を新設すると共に、液晶テレビの組み立て工場をもつ「垂直統合」モデルを取りました。'06年には第8世代の亀山第2工場も稼働させました。
亀山の工場は韓国や台湾のライバルにキャッチアップされないために、液晶パネル工場内の立ち入りを制限したり、独自技術は特許化せずに工場内で秘匿したりという「ブラックボックス戦略」を取りました。ただ液晶テレビの組み立ては「請負」に出すなど、クローズドにするところとオープンにするところを分けた戦略を取っていました。その結果、「亀山工場製」と工場名がブランドになるほど、薄型テレビは大ヒットし、シャープの業績を飛躍的に伸ばしたのです。
ではこの間、他の国内家電メーカーはどうしていたのか。ソニーは、フラット型ブラウン管テレビ「ベガ」での成功体験から、独自の平面ディスプレイを研究・開発しませんでした。これは技術経営上、大きな問題でした。