日本人は外来の文化や技術のマネが上手く、どんなものでも受け入れるが、受け入れたものを独自に発展される力があると理解している人は多いと思います。しかしこの考えも修正する必要がありそうです。日本は歴史的にみて、“どんなものでも受け入れた”わけではないことわかります。当時の強大な文明国であった中国の制度である科挙、宦官(かんがん)、族外婚、一夫多妻、姓、纏足(てんそく)は、受け入れなかったのです。それらが当時は、文明国の証である制度であってもです。これからわかることは、日本は日本の文化や制度、技術の発展に良かれと思うものしか受けいれてこなかったということです。今の日本は欧米の猿真似で発展してきたと揶揄する議論がありますが、本質を突いていないように思われてなりません。
 次に江戸時代が実は私達が教えられてきたような階級社会ではなく、単純に農民は重税で苦しめられていたというワンパターンの認識ではなかったという話を紹介します。


 ・・・<『超マインドコントロール2』、p221~p226から抜粋開始>・・・

 江戸時代は階級社会などではなかった!

 江戸時代をひとことで言えば、平和で戦争がなかった時代。まさに平安時代の再来、といえるかもしれません。
 戦国時代の勝者が豊臣秀吉に確定し、その秀吉晩年の明国出兵も終わり、天下二分の関ヶ原の合戦で徳川家康が政権を掌中に収め、仕上げに将来の戦争の禍根を残しそうな豊臣家を滅亡させるために大坂冬と夏の陣を仕掛け、最終的に家康が天下を取って幕藩体制を固めると世の中は落ち着いてきました。
 しかし、実は江戸時代は一貫して一揆の時代でもあったのです。地方自治が完全に行われていましたから、とくに各藩は民をつねに慮(おもんばか)らなければ政(まつりごと)を行うことはできませんでした。
 江戸時代の人口構成は、武士は7パーセント、農民84パーセント前後、工商が6パーセントでした。職業選択の自由や移動の自由(ただし道中手形=パスポートと関所手形=ビザは必要)も認められていましたし、町人が武士になったり、武士が町人になることもありました。
 士農工商という、インドのカースト制度のような階級社会があったと教科書で習った方は多いと思いますが、階級はあっても階級意識はありませんでした。各藩が子弟を教育する藩校もありましたが、寺子屋に行けば、町人の子も農民の子も勉強していましたし、優秀な子どもは、率先して藩校で勉強するチャンスを与えられていたほどです。身分に関係なく、専門的に勉強している農民や町人に武士が弟子入りすることもごくごく自然にあったのです。
 体面だとか面子だとか、あまり意識することなく勉強していました。幕末維新に来日したお雇い外国人たちが一様にコメントしているように、好奇心が異常に強い日本人は知識や情報を持っている人を身分の別なく尊敬するという気質があります。
 これはいまなおまったく変わらないパーソナリティだと思います。そのベースにあるのは卑弥呼の時代から「知らないことを知っている人=予言者=巫女」を共同体でいちばん重要視してきたからでしょう。いわば、情報民主主義というものが古代から成立していたのだと思います。
 上に立つものの厳しさでは、たとえば、藩の政(まつりごと)が悪ければ、農民に逃散の権利(「逃(にげ)こぼち」)を認めていました。さらに無茶な年貢を課すような藩主に対しては一揆という形で「ノー!」を突きつけるのです。その激しさは死を覚悟して行うべく、だれが責任者かわからないように「傘連判」という形で書面として結束しているほどです。
 もともと、日本には欧米のように徴税請負制や人頭税はありませんでした。人頭税とは一人頭で税金=年貢を取り立てることです。徴税請負人とはヨーロッパでは常識で、2000年前のローマ帝国にもいましたが、ある一定の金額を税金として国王に納める契約をすると、それ以上、取り立てた税金はその徴税請負人の儲けになる、という制度です。国王にしてみれば、こんなに便利なことはありません。ですから、オークションで徴税請負人を選んでいたほどです。いま、金融を意味する「フィナンシャル」という言葉の語源はこの徴税請負人のことなのです。
 もちろん、古今東西、徴税を率先して賛成するような民族は3・11東日本大震災の被災地復興復旧のために使って欲しいと差し出す日本人くらいで、ほかの民族は100パーセント嫌いますから、こういう汚れ仕事はユダヤ人にさせていました。

 江戸時代ほど民に優しい政治はなかった!

 テレビや舞台、あるいは小説でも、民に苛斂誅求(かれんちゅうきゅう)を要求するあくどい藩主や代官が必ず登場しますが、こういう人たちはほんの数える程度しかいませんでした。というのも、もし、そんな為政者がいたら、農民は逃げ出して、まともな藩政をしている地域に合法的に移ってしまうからです。また、江戸時代は労働力が少なかったために、各藩とも他藩から逃げ出してくる人々を喜んで受け容れていました。彼らのための宿泊施設を完備する藩も少なくなかったのです。
 農民の力が強く、年貢にしても「石盛の五公五民」という意味はそのときどきの生産量の五公五民ではありません。
 年貢を取り立てるには、この地域ではこのくらい石高があるからこの程度の年貢をとろう、というベースになるデータが必要です。しかし、このベースとなる検地が行われたのは江戸時代を通じて2回だけです。しかも初期と中期ですから、どんどん生産性が上がっても農民は100年前、200年前のベースで年貢を納めればいいのです。こんなことを許しているから、藩の財政は苦しくなるのです。
 いま、全国津々浦々、郷土色豊かな特産物が人気を博していますが、そのほとんどは江戸時代に各藩で開発されたものばかりです。どうして特産物などを開発したかと言えば、本来の年貢=コメだけではとても足りなかったからです。
 ならば、検地をもっときちんと熱心にやればいいじゃないかと反論されそうですが、もしそんなことをすれば、よくて逃散、悪ければ一揆です。一揆など起きてしまえば、幕府になにを言われるかわかりません。「藩政が悪いからだ」とばかりに切腹やお取りつぶしになるかもしれないのです。
 そこで、賢い藩主は労多くして益少ない検地などせず、他藩や江戸、大坂で儲かりそうな特産物の開発に自然と熱心になっていったのです。もちろん、このほうが藩の実入りは多く、北海道の松前藩(特産物は乾ニシンや乾イワシ)や長崎の平戸藩・対馬府中藩などは、コメが少ないので年貢があまりとれないにもかかわらず、特産物で年貢の10倍以上もの実入りがあったほどです。
 こういう裕福な藩もあれば、上から下までそろって関ヶ原から脳が止まったままの藩の中には財政破綻でお取りつぶしになるケースもありました。参勤交代という絶好の情報交換制度を利用して裕福な藩の手法を聞き出せばいいのに、かたくなにコメのみに固執する愚かな藩主もいたわけです。
 餓死者がたくさん出た藩もありましたが、コメがなかったわけではありません。食糧を届ける流通網が完備されていなかっただけです。
 ・・・<抜粋終了>・・・


 まず私が驚いたのは、江戸時代の農民は土地を失ったら野垂れ死にの運命ぐらいに思っていたのですが、実態は全然違うということでした。重税を課した藩から他の藩に逃げる権利まで認められていて、他の藩では足りない労働力が確保できると喜んで、宿泊施設まで用意していたというのですから驚きです。
 こうした背景には、江戸時代では完全な地方自治が行われていたからと言えるもしれません。徳川家は日本全国の諸大名の頭領の立場であり、各藩の政(まつりごと)は完全に藩に任されていました。明治以降の中央集権国家になってしまうと、農民が重税から逃げ出す自由はなくなったといえます。