「新・ノアの方舟」始末記
1976年、日本のマスコミ紙上を騒がせた「新・ノアの方舟」事件。
果たして超能力者を自称する怪女の国際的詐欺だったのか、それともベリアルに魅入られたドロ船だったのか?これまで書こうとして何度となく挫折した著者が天命を得て遂に執筆を開始!
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「日本を見限った人たちが移住して来ますよ」


2度、3度と新田に会う中で彼が何をこのパラグアイに

求めているのかが北原にも段々理解出来た。


これまで幾度となくCIAの命懸けのミッションに

携わってきた彼は街中やショッピングセンター内を

歩くときでも決して油断しない。


特にトイレやエレベーター等に乗る時、

角を曲がる時なども一瞬、間を測る。

レストランや喫茶店等でも背後から襲われないような場所に座る。



彼とホテルの部屋で話した時

「僕はどこに行く時もいつもこれをポケットに

しまっているんですよ」

と掌に金色の鈍い光を放つ塊を見せた。

金塊だった。


「国境線のジャングル等をさ迷う事がよくあるんですが、

そんな時、どの国に出るか分からないので

ドル札等役に立ちません。

金だったら世界中どこでも換金出来るんですよ」


華僑が金など貴金属をいざと言う時に大事に持ち歩く、

とはよく聞いたが、様々な修羅場を潜り抜けてきた

ソルジャーから直接聞いて北原は新田の苛烈な人生を思った。


彼はこのパラグアイにも何度か来ている。

「チャコ奥地に素晴らしい所がありますよね~。

そこをエコツアーとして欧米や日本向けに売り出したらどうか、

と考えているんですよ」と言って、

彼はビデオで撮影したブラジルパンタナール地方の

エコツアーの場面を部屋のテレビで見せた。


「いいカメラですね。きれいに撮れていますね」


「カメラより僕の腕を褒めてくださいよ」

確かに撮影センスも大したものだった。


原色の珍しい様々な鳥や動物、ワニなどを見て欧米の

観光客がボートツアーを楽しんでいた。


ニコニコと相好を崩して冗談を言う時の新田を眺めていると、

70歳を超え現役を引退した今、

こんな田舎でのんびりと余生を送りたいのだろうか…、

とフト思った。


「日本はダメですよ。もう救いようがない。

日本に住んでいる僕の一番弟子、

金田健二という青年が移住したいと言っているんですよ。

遊べ遊べと言うのですが、真面目な堅物でねぇー。

永住権の手続きをお願いしますよ」


「移住、大歓迎ですよ。日本とパラグアイは移住協定があり、

85000人の移住枠満杯になるまでウエルカムですからね」


事実、この移住協定はいつまで、

という年度に関係なく受け入れるという世界でも稀有の

日本人移住受け入れOK国だ。


「もう一人、右翼団体が出している機関紙の編集主幹の

玉田登志彦という人も移住してきますよ。

彼は歌も詠む文化人ですよ。歳は僕と同じくらいですがね」


新田の話具合では移住希望者はまだまだいるようだった。


(バリバリの右翼ばっかり来られてもちょっとヤバイな~)


「前科持ちは来られませんよ」

北原の危惧を察した新田が言った。

ロッキー新田 来パ

ロッキー新田、来パ

5月下旬、アメリカ在住のロッキー新田という人物から

「パラグアイは人類に残された素晴らしい楽園です。

この国を世界的に売り出すためのプランを持って

訪問するのでよろしく」というメールが届いた。


面白い人物だな、北原も興味を抱いて彼の来パの日を待った。


メールの到着予定日を過ぎても何も新田から電話がなかった。


ある日、「新田です」と電話があった。森山ホテルに泊まっているという。

電話の声から大分年配者だなと北原は思った。


優子を連れて森山ホテルに出向いた。フロント脇に新田はいた。


頭をつるつるに丸めネクタイをきちんと締めた新田が

直立不動の姿勢で頭を下げて握手を求めてきた。

年齢は70歳前後だろうか、強い握力に驚いた。


同ホテルのレストランで一緒に昼食をとった。


「72歳ですよ。長旅は応えるようになりました」

と笑いながら新田は言った。


談笑の中で時折、新田は人を射抜くような鋭い目で

北原をじっと見つめる。

その目は、まさに殺気を帯びているような目つきである。

(只者じゃないな)と北原は、感じた。

(この目は、どこかで見たことがある)フトと北原は思った。


そうだった、あの井上日召「一人一殺」の直弟子、

老右翼の大物、大江乾雲と同じだった。


話の端々でやっとこの人物の正体がおぼろげに分かってきた。


フランス外人部隊等アフリカや中東などの紛争に傭兵として戦い、

その体験記を出版した本の著者が彼だった。


「格闘技で顔面をガンガン殴られるから歯を全部抜いちゃったんですよ」


鋭い顔が笑うとクシャオジサンみたいになって一気に可愛い顔になる。


新田は盛んに「気」の話をした。北原同様、(会いたいな)と

思った相手から突然電話がかかったり現れたりするのだという。


突然、スプーンを手に持つと念力で曲げるという。

スプーンを額にかざし、目を閉じ暫く念を送った後、

左の中指をスプーンの皿にあてグニュッと曲げた。見事だった。


―と、優子が「私もスプーンを曲げたことがあるんですよ」と言った。

新田は一瞬、あっ気にとられた顔をした。

(余計なことをいうなよ)北原もハラハラした気分で優子を見た。

そんな二人にお構いなく優子はスプーン曲げの体験を話し出した。

確かに優子には一種の超能力がある、と北原も認めていた。

「どんな女性でも100発100中、落とせます」

「それは気ですか」

「そうです」

「確か南野バレー団の先生が大の大人を並ばせて身体に触れずに

“気”で吹っ飛ばすというビデオを見たことがありますが、

あれは本当ですか?」


「あれは嘘です。彼に直接確かめたら、それは出来ない、

と彼も言っていました」


そんな談笑中も彼は、時折、北原をじーっと睨みすえる。


北原は彼の気を外すため彼の目を見ないで鼻の上の

眉間を見つめて話し合った。


北原は言葉には出さなかったが、

(僕はむしろ気でプレッシャーを相手にかけないように

努力しているのですよ)と心の中で呟いた。


北原が人と話す時には極力、自分の気を消してふんわりと

和むような場を心がけている。


その意味では、新田と北原は対極のキャラクターだった。


新田と別れて事務所に帰った北原はインターネットで

ロッキー新田の人物欄を調べた。


彼は先ほどの談笑中、話さなかったが、

例のペルー日本大使館占拠事件の時、

ペルー国軍特殊部隊を訓練して奇跡的な人質解放を

達成した人物だった。


また米国内で総合格闘技学校を主宰している。

ロッキー新田の射撃教室というホームページもあった。

それをクリックすると金髪女性兵士を使って

「キル・ハウス」(敵が潜んでいる家屋セット内で本物の

ガンで的を撃つ施設)でガンガン、ピストルをぶっ放す

訓練場面の映像が流れている。


ビデオに出る新田は若い。10年くらい前の映像だろうか

顔も身体も今より一回りデカイ。

文化と匠の里イグアスジャパンタウン構想


イグアス神社建立を決意

選挙から1年半余が過ぎた2006年1月、北原は、

かねてから心に閉まっていた「イグアス神社建立の時期が来た」、

と感じるようになっていた。


イグアス神社建立は、1984年10月27日、

愛知県春日井市の尾張戸神社での「終わり(尾張)の戸を開けた」

という天の啓示を受けて以降、

ずーっと心に秘めてきた最大の使命であった。 


イグアス移住地は、北原が「文化と匠の里イグアス・ジャパンタウン」

構想を内外に公表した素晴らしいロケーションの地である。


世界3大瀑布の1つ「イグアスの滝」は車で僅か1時間余であり、

これまた世界1の水力発電所イタイプダムが30分余という

絶好の場所で国際道路7号線に沿っている。


この移住地は、パラグアイの首都アスンシオンまで車で4時間、

ブラジルとの国境の街、国際自由商業都市(フリーポート)

エステ市まで40分。さらには同移住地から10kmの所に

グァラニー国際空港もある交通至便の地である。


この移住地は、1961年に日本政府の外郭機関によって創設された。

当時の大原始林は今やすっかり開拓されて見渡す限り大豆と

小麦畑の沃野に変貌した。


日本人が日本から持ち込んだ一粒の大豆の種子は

パラグアイを世界で5本の指に数えられる一大生産国に変えた。


日本人の海外移住はハワイへの明治元年移民が始まりとされている。

以降、百数十年、無数の日本人がカナダ、北米、中南米へと

大きな夢を抱いて渡航した。

今や多くの国々で日系二世、三世、四世たちがそれぞれの

居住国で活躍している。


この南米に於いても「日本人が野菜、果物など多くの豊かな

農産物をもたらせてくれた」と感謝され、

「ジャポネ ガランチード」(日本人は信用出来る)

との絶対的な評価を勝ち得た。

確かにソフトな分野に於いて日本人は、高い評価を得た。


十数年前、日本の全国紙のサンパウロ駐在員が、

3年の職務を終えて日本帰国前、ブラジル国内旅行をした。

彼は各地の日系移住地やドイツ系、

オランダ系移民たちの村や街を視察して

「日本の移民政策はヨーロッパ諸国に負けた」との痛恨の想いを

ある雑誌に寄稿した。それを読んだ北原は胸を打たれた。


かってタイやシャムなどに日本人が進出し多くの日本人町が誕生した。

しかし、江戸幕府の鎖国制度によりそれらは消滅し、

「かってここに日本人が住んでいたそうな…」と、

今や痕跡すら残っていない。


明治元年以降、南北アメリカ大陸に数多くの日本人コロニーが誕生した。

それらコロニーも二世、三世と時代を経るごとに現地に

同化して消えていきつつある。


それに比しドイツやオランダなどは自分たちの母国の街を

そっくりそのままハードとしてブラジルに誕生させている。

彼らは母国の街をそっくり再現しただけでなく伝統文化や

言語等も誇り高く堅持している。


これらのことから北原は抜群のロケーションを持つ

イグアス移住地に日本の伝統文化を移植する

「文化と匠の里・イグアスジャパンタウン」構想を抱くようになった。


そのイグアス移住地には奇縁ともいうべき

南米1の大鳥居がパラグアイ人市長によって建てられている。


いよいよ最終章   「日本国消失」

―日本国消失―

頭を丸めてブラジル訪問

選挙惨敗後、北原は優子と二人パラグアイに9月中旬戻った。

アスンシオン空港に北原の息子や娘に交じって在パ熊本県人会の

人たちが迎えに来ていた。

帰国後、北原がまず一番に取り組まねばならない仕事は応援して

くれた人たちへのお礼挨拶である。パラグアイ国内の人たちには

一人ひとりお礼の電話や礼状を郵送した。


また、日本国内の主要な支援者たちにお礼状を送付した。

内外の支援者たちへのお礼挨拶が一通り済んだが、

お隣のブラジルの支援者たちへのお礼回りが残った。

北原が選挙に出るにあたってエンジンの大きな原動力に

なったのが移民大国ブラジルであった。



ある日、朝風呂に入った北原はかみそりで頭を丸めた。

前頭部の方は、何とか剃れたものの後頭部がうまく剃れなかった。

浴室から優子を呼んだ。

北原の頭を見た優子は絶句し、やがて顔を覆って嗚咽した。

そんな優子を促して後頭部を剃ってもらった。

青々とした頭を鏡で見て北原は(坊主もまんざら悪くはないな)と

結構、気に入った。

ブラジル訪問の日時を検討していた北原に小坂三蔵事務所から

「ODAミッションの団長として訪伯する」とのメールが入った。

小坂参議は北原の自民党公認に尽力してくれた最大の恩人である。

サンパウロの邦字新聞、ブラジル報知の山木ラウル社長に訪伯日時を

メールで連絡した。


アスンシオン~サンパウロは飛行機で1時間半である。

サンパウロには優子と二人で行った。


ブラジルには2つの邦字新聞がある。

サンパウロ時事とブラジル報知である。

7年前までは、もう1社、聖州毎日があった。


しかし、7年前、聖州毎日とブラジル日報が合併して

ブラジル報知新聞社となった。


山木ラウル社長と北原は20年来の友人である。


ブラジルの支援者たちに再会すると、皆一様に目を見張ると

同時に「似合ってるよ」と大笑いした。


ブラジル報知編集部に北原が現れると編集部が

一瞬異様な雰囲気に包まれた。


やがて顔見知りの編集長らが「仏門に入りますか?」と

笑いながら握手を求めてきた。


「再度、出馬するのか?」との記者の質問に北原は

「次回はもっと若い人に南米代表として出馬してもらいたい」と

述べると同時に今後も引き続き在外選挙方法の改善に

尽力したいと語った。


小坂三蔵参議らODA評価ミッション一行とは、

ホテルロビーで夜、面会した。


熊本選挙区で北原を全面的にバックアップした

佐藤博子参議も一緒だった。


小坂参議らは北原の坊主頭を見ても

顔色一つ変えなかった。さすが歴戦の政治家である。


同参議は翌朝の北原夫妻をホテルでの朝食に誘った。

翌朝、ホテルで同参議と朝食を共にした後、

ミッション一行のバスに同乗した。

同参議は同ミッションの団長で一行には公明党、共産党議員もいた。

北原は小坂参議の温情と懐の深さに感じ入った。

第1部終了。第2部は「日本沈没」お楽しみに!

本日7/21 訪日します。


長い間、ご愛読頂きました「ノアの方舟 始末記」第1部、取り敢えず
終了させて頂きます。


暫くして落ち着いたら第2部「日本沈没編」を再開しますので
お楽しみに!



後輩宮崎の迎賓館へ


「選挙は、支持者に迷惑をかけるから、絶対勝てると確信出来なければ
出るべきではない」と出馬前、落選経験のある現職議員からの忠告が
今さらながら北原の胸に応えた。

落選後、応援してくれた国会議員、内外の支持者たちへのお礼挨拶を
一通り済ませた北原は誰にも会いたくない気持ちに陥った。

ある現職議員が落選した時、半年程、家から一歩も出なかったという話を
人伝てに聞いたことがあったがその彼の気持ちが痛い程、分かった。

幸か不幸かパラグアイへの帰国便が満席でチケットが取れなかった。
1週間先にやっとキャンセル待ちで予約を入れることが出来た。

目一杯借金を抱えた末の落選だから懐にも余裕はなかった。
どこか僻地の廃寺でもあればそこでひっそりと暫く優子と暮らしたいと思った。
残念ながらそんな都合の良い所はなかった。

「帰る迄に一度、うちの稲毛にある迎賓館に泊まりにきませんか?」
と宮崎武一が以前言っていたことを思い出した。

宮崎は高校のラグビー部1年後輩で千葉市で事業を営んでいる。
宮崎は選挙中も精一杯応援してくれた。

彼に電話をした。「どうぞどうぞ、うちの迎賓館へ!と言っても
普段使っていない普通のマンションですけどね」迎賓館とは、
彼一流のジョークである。

ホテルに泊まる金にも事欠いている北原夫婦にとっては天の恵みであった。

稲毛駅に迎えに来た宮崎とは高校卒業以来40年振りの再会だった。

黒ぶち眼鏡をかけた宮崎は昔通りの人なつっこい笑顔で改札口で待っていた。ランキングに登録しました。良かったらクリックして下さい。blog-net

完敗! 自民党比例区候補者中のどん尻

サンパークホテルは、北原が借りている
マンスリーマンションのすぐ近くであった。
ここは地の利が良い事で知られたビジネスホテルだった。

優子と二人のツインベッドの部屋は意外に狭かった。

やがてテレビで開票速報が流され始めた。
夜11時過ぎ比例区の当確発表がつぎつぎでてくるようになった。
選挙事務所の東選挙参謀からまだホテルで待機しているように
との電話が入った。

テレビカメラはもう3台入っているという。
新聞記者も数人待機しているようだ。

自民党比例区の投票数が画面に登場する。

北原は自民党比例区のどん尻で全く票が伸びない。

まさか?このままでいくとは思えないが?
北原は優子と顔を見合わせた。

「おかしいわね?」優子も不安そうだ。

当選出来るとは思わなかったがまさかここまで惨敗するとは予想もしなかった。

NHKの政見放送収録時に次ぐみじめな屈辱だった。

午前零時を過ぎてやっと10000票を突破した。

携帯電話がなった。「もう事務所に来て下さい。
マスコミに挨拶しなければいけませんから」
東の口調も低く重かった。

事務所に顔を出すと世界緑化協会の事務局長や
大勢の支援者たちが沈んだ表情で北原を迎えた。

事務所の空気は打ち沈んでいた。

カメラマンや新聞記者たちも気の毒そうな顔で北原を迎えた。

「この完敗は全く私の実力不足の結果です。
内外の応援して頂いた支援者の方々に心からお詫び申し上げます」

テレビカメラに向かって話す北原の敗戦の言葉もともすれば途切れがちになった。

北原は自民党比例区候補者中、最下位12875票。弁明の余地ない完敗だった。

テレビ局や新聞記者が引き上げた後、事務所スタッフ、
支援者を前にして北原はお礼の言葉を述べた。

「私は自民党公認候補となった時、政治家になる事が天命だと信じて
皆様に支援して頂いてがむしゃらに頑張ってきました。
しかし、どうやら私の使命は政治家になる事ではないようです。
もっと別な使命があるようです。
私の当選を信じて今日まで応援していただき心から感謝申し上げます」
優子ともども深々と頭を下げた。

だが、聞いていた皆には単なるいいわけにしか聞こえなかっただろうが、
北原は真剣にそう信じていた。

斉藤事務局長がそんな葬式ムードをぶち破るように大声を上げた。

「僕は日本の政治家になることがそんなに重要だとは思いません。
僕の息子は僕に似て頭がいい。優秀です。将来ブラジルの大統領にしてみせます!」

事務所の空気がこの大ボラ話に和み拍手をした。

マンションに帰ろうと事務所の外に出ると山本孝が彼の車の中で嗚咽していた。
「済みません。力不足で…」
それをみて優子も泣いた。

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選挙の遊説はマスターベーションのようなもの


「選挙中の遊説なんていうのは、マスターベーションのようなもので
何も効果はありません」と選挙前、選挙参謀の東がボソッと言った事がある。

北米から南米、熊本、愛知、東京と6月24日の公示日から
7月10日迄の17日間、無我夢中で走り回った北原は肉体的な疲労よりも
精神的な虚脱感が応えた。

選挙結果は告示前に既に決まっている。

熊本の山村部を回った時、自分の地元でありながら
県内に全くポスターを立てられない北原に比べて
いわゆるよそ者の有力候補者たちのポスターが人も車も
余り通らないような道路脇に等間隔で立てられているのを見て
選挙とは組織力だと痛感させられた。

7月11日(日)投票日、北原と優子は渋谷選挙区の投票所に投票に行った。
開票は夕方6時過ぎから始まる。

「事務所にはテレビ局や新聞社が押しかけますので
サンパークホテルで待機していて下さい」
選挙参謀の東が北原に言った。

選挙前、某テレビ局が局独自の事前調査をした結果、
北原は有力当確候補者の一人だ、ということで事務所には
テレビカメラが設置されることになっていた。

北原にはあのNHKテレビでの全候補者の政見放送時の無様な失敗が
ずーっと澱のように気持ちの底に沈澱していた。

某テレビ局が立てた北原の当確予想を北原自身は全く信じていなかった。

マスコミは北原が初の海外在住候補者として登場して
海外選挙区に関心を持ち始めた。

今回の参院選ではこれといった目玉的な争点がなかっただけに、
新聞社によっては海外選挙区特集や解説記事を載せたりする新聞もあった。

さらにこの異色候補者が北米やヨーロッパ、
南米の大国ブラジルではなく名前も余り知られていない
小国パラグアイと言う事でモノ珍しさ等も加わって
全国紙が好意的に頻繁に取り上げた。

もう一つ付け加えればこの候補者が小さな邦字紙経営者兼編集主幹と
いうことも好意を持った要因の一つだったかも知れない。

今回の参院選候補者の中で北原はダントツの頻度で全国紙に取り上げられた。

公示前迄は各候補者を取り上げてもいざ、選挙戦突入以降は、
各紙とも暗黙の紳士協定でそれと分かる候補者の記事や写真は
取り上げないのが通例である。

その常識を破ってサンパウロでサンバを踊る北原のカラー写真を
全国紙が掲載したのは、まさに異例の扱いであった。ランキングに登録しました。良かったらクリックして下さい。blog-net

浅草雷門前で最終演説会

浅草雷門前で最終演説会

7月7日から最終日の10日迄の4日間、都内と千葉市を遊説した。

「ジロウ北原、ジロウ北原、海外から日本を変える勇気と
実行力の人ジロウ北原!」とテープレコーダーに吹き込んでくれた
美声のウグイス嬢本人が1日だけ湘南方面の遊説時、
選挙カーに同乗して一緒に回った。

さすがプロ、通行人たちの状況を一瞬にして捉え畳み込んで
語りかけるアナウンス力に北原は感嘆した。

また、斉藤事務局長と小坂三蔵参議秘書の山本孝も
連日同乗して熱烈な応援演説をした。

大分や愛知県でテープレコーダー回しと孤軍奮闘の喋りに比べると
東京での4日間は格段のボリュームと熱気に溢れた選挙運動となった。

選挙戦最終日の10日、千葉に向った。湾岸線を千葉に向う途中、
(待てよ、千葉市とアスンシオン市は姉妹都市だ!)
フッと北原は思い出した。迂闊と言えばうかつ、ドジな話だ。

もっと早く気がついていればもっと効果的な千葉攻略が出来たのに、
と悔やんでも遅かった。

この選挙は全てがこんな調子で、ド素人の悲しさ未熟さに
歯がみするばかりだった。

「ジロウ北原、ジロウ北原!」山本孝の絶好調の連呼が続いた。
「千葉市の皆様、千葉市の姉妹都市パラグアイの首都アスンシオンから
立候補の挨拶に参りましたジロ北原です」斉藤節も熱を帯びる。

「姉妹都市!」という呼び掛けに「オヤッ?」と
立ち止まりこちらを向く人達が多くなった。

やはり千葉市を重点選挙区にすべきだった。

最終日、北原に夕方5時迄に浅草の雷門に来るようにとの指示が
小坂参議からあった。

自民党が大動員をかけての参院選最終演説会が浅草の雷門前で
夕方行われる事になっており、
大泉自民党総裁も出席することになっていた。

一方、八王子市でも安藤幹事長による自民党最終演説会が予定されており、
そちらには優子が回った。

千葉での遊説は、あと斉藤、山本らに任せて早めに千葉遊説を切り上げた。
運転をしていた山田浩一と電車で浅草に向った。

地下鉄出口を上がり地上に出ると霧雨がぱらついていた。
通り両側には身動きが出来ない程、人々が溢れていた。
かき分けかき分け進むと、既に自民党の選挙カーが雷門の前に陣取っていた。
周辺を警察官が囲んでいた。

「候補者です!」山田が大声で説明して選挙カーに近付いて横で待機した。

日高英太選対広報部長、小坂参議らが次々声を張り上げて熱弁を振う。
さすが練達の国会議員、闊達な話術に思わず唸る。

やがて小坂参議が「上がって上がって!」と手招きした。

自民党の選挙カーは普通の車より大きく車の後部ドアが開いて中に入れる。

中にはこの最終選挙演説に話すチャンスをもらった
候補者達が4~5人待機していた。
促されて車の真中の螺旋階段を上がって屋根に上がった。
対面道路も雷門側も人々々で溢れ返っている。

「今の日本には食糧が溢れかえっています。でも、
激動の世界情勢下、いつ非常時が発生するか分かりません。
日本有事の際の備えをするのが政治家です。
世界の食糧基地南米、南米パラグアイのジロウ北原が
日本の食料安保体制を作ります!」

ワンワンとむせ返る大群集の熱気に包まれて声を限りに絶叫した。

煙るような霧雨が火照った頬に心地よかった。

短くも長い熱く燃えたひと夏の泡沫(うたかた)の饗宴は、
最高潮の盛り上がりを見せて終わった。

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ヒットラーを強気ににさせたイギリスの宥和政策


ーヒットラーを強気ににさせたイギリスの宥和政策ー


今の中国の露骨な軍拡路線による覇権主義は、
かってのヒットラー率いるナチスドイツのオーストリア併合と
チェコスロバキアのズデーテン地方割譲とだぶって見えてくる。

当時、ドイツの野望を阻む力をもっていたのはイギリスだった。

しかし、その大英帝国も1930年代に入ると7つの海を支配する力を
失いつつあった。

全世界に広がったイギリスの領土や植民地などを重要度に応じて
整理しつつ大英帝国の威厳を保とうとしていた。

下手にドイツと戦争でも始めれば最後は勝つにしても海外資産を失い
大英帝国は滅亡の坂道を転げ落ちるのではなかろうか、
とイギリスの支配層は脅えた。

その弱腰が時のイギリス首相チェンバレンの宥和政策となって
ドイツを益々大胆な行動に駆り立てた。

さらにイギリスがドイツとの宥和政策を取らざるを得なかったのは
英独間の貿易額が全貿易額の大きな比率を占めていたことから
イギリス実業界と銀行界がドイツとの永続的な貿易体制を望んだからでもあった。

イギリスとフランスを覆っていた平和主義と厭戦気分が
ヒットラーをして無謀な大戦へと突き進ませた大きな要因であった。

歴史は繰り返すというが、大英帝国と今の超大国アメリカが於かれた
立場は酷似しているようだ。

弱体化の徴候を見せ始めたアメリカは海外に展開した
米軍基地の整理縮小体制を進め始めた。

沖縄を代表とする日本国内の基地再編がそれである。

そんなアメリカが日本と成長著しい中国の巨大マーケットを
天秤にかけた時、少子高齢化で成長の限界を露呈した日本を
血を流して迄、死守するわけがない。

台湾海峡を封鎖しミサイルの照準を定めて恫喝するだけで
台湾も日本も手を上げて中国に併合されるだろう。

これが悲しいかな平和主義国家日本の近未来図だ。

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