東名駅廃墟化/海に浮かぶ高齢者施設/津波襲来はまるでパノラマと語った老人/再び国道へ戻る 東日本大震災からみちのく巡へ35

 

  まるで廃墟の東名駅 海になった東名浜

   野蒜小学校から鳴瀬川と松島湾を結ぶ東名運河沿いの道・県道27号(奥松島パー

  クライン)を1キロほど歩くと、東名駅のすぐ手前の弧線歩道橋に差し掛かかりま

  した。

 

   震災前の東名駅

   弧線歩道橋からは東名浜のほぼ全域を見渡すことが出来ます。

  東名には子どもの頃から海水浴や潮干狩りで何度も来ていたし、子供や孫たちも

  連れて来ていた馴染みの場所だけに、その変わり果てた姿に衝撃を受けました。

  

 

                 震災前の東名駅

   震災後の東名駅

   弧線歩道橋の上から東名駅を見ると、駅舎は消滅し線路もプラットホームも

  がれきや船で覆い尽くされています。仙石線駅の中で最も被害が大きいように思

  います。

 

  まるで海になってしまった東名浜

   海側に目を移すと、大きな地盤沈下のため砂浜や陸地が海になってしまった状

  態がよくわかります。コンクリートの建物が海の中に建っているという感じでし

  た。この状態を見て真っ先に想像したのは《施設利用の高齢者はどうなったのだ

  ろう?》ということでした。

 

 

 

 

   この地域には、高齢者施設や介護施設が数カ所あり、高齢者や身体の不自由な 

  方々が、職員の懸命の避難介助も虚しく少なからず犠牲になりました。痛ましい

  ことです。その都度、慰霊の場や遺族の心を癒す場が必要だという思いが強まり

  ます。

   海側は地盤沈下して運河付近まで水没していました。というよりも、以前は砂

  浜や陸地だったところが海になってしまいました。まるで海の中に施設や家屋が

  立っているという感じでした。2年経過しても水は完全には引かず、この光景は変

  わりませんでした。

 

 

   跨線歩道橋を渡って松島方面に向かう予定だったのですが、道路一面にがれき

  の山ができていて通行が不可能でした。  

ガレキが道をふさぎ通行不可能

 

   もう一つの理由は、東名から仙台へ向かう道路は比較的高い位置にあるので、

  幸い津波被害があまり大きくありませんでした。そこで「新東名(しんとうな)」と

  呼ばれている新興住宅地を通って、再び国道45号線に戻ることにしました。

 

   避難場所になった大仏山

  「新東名」住宅地は、駅の北側のやや高い場所にありますが、震災から1週間後に

  も関わらず、住宅地は相変わらず冠水していて道はドロドロしていました。靴の

  中に泥水が入り込んでピチャピチャ音がするし、重くて極めて歩きずらい状態で

  した。

              新東名の住宅街は依然として水浸し

 

   住宅地で出会った一人の老人と立ち話になりました。

  「津波の時にはどこへ逃げたのですか?」と尋ると、小高い山の方を指差しまし

  た。宅地の背後にある大仏山という80メートルほどの小山です。そこを目指し

  たとい言います。「新東名は小高いので、住民の中には安心して自宅の二階に避

  難して犠牲になった人もいるんだよ。新しく引っ越してきた人は以前の災害のこ

  とは知らなかったからな~」と、悲しそうに目を伏せました。

 

    大仏山から被害状況を眺める   

   老人は大仏山からは海が一望できるといいます。私に当日のことを訊かれて、

  ―――「何だか現実とは違う光景を見ているようだった。大きなスクリーンで、

  映画を観ているようだった。自分の家が流される時も、あ~、流れて行くと、他

  人事のようだったな~。みんなも特に悲鳴を上げるわけではないし、女衆だって

  泣き喚くやつは一人もいなかったと思うよ。みんな度肝を抜かれて、あっけに取

  られていたのかも知れね~なあ」と、思い起こすように語ってくれました。

 

   後日、再び訪ねた時、自分も大仏山へ上ってみました。その時、大津波がこの

  東名地区を襲って破壊しつくす様子を、避難した人々はどんな気持で見続けたの

  だろうか?と想像しました。

   自分自身の体験ですが、――人間は大自然のようなとてつもない大きな存在に  

  支配されて、どのようにあがいてもなす術がないと悟った時には、観念してそれ

  に従順に従うものではないかと思います。私は大人になってから、震災前にも二

  度、死と直面したことがあります。

   一度目は、25歳の頃群馬県・利根川で水泳をしていて、予告なしのダムの放流の

  ため急に増水して流され、200メートルほど下流の変電所の直径5mほどの取水

  管に危うく吸い込まれそうになりましたが、直前にステンレス製のアーム状階段

  につかまって助かった経験です。あの時にも死を覚悟した時、体の緊張が取れた

  のを記憶しています。

   二度目は20年ほど前、中国のゴビ砂漠での経験。ダンプにヒッチハイクして

  砂漠を走っていた時、風底50mの猛烈な砂嵐に遭遇しました。その時も、《こ

  こで死ぬのも運命なのだろう》と腹をすえました。そうすると気持がすうっと楽

  になったのです。そして、最後になるかもしれないという思いもあってシャッタ

  ーを切り続けました。意外なほど落ち着いていました。《人間、いざという時に

  は落ち着けるものだなあ》と感じました。利根川の無予告放水の時も、ゴビ砂漠

  での砂嵐遭遇の時も、同じように、達観した心境だったからです。

 

   帰路は、新東名住宅の山際の道を歩き、45号線の鳴瀬川岸に到着しました。

 

 

  

[みちのく巡礼ホームページ] http://michinoku-junrei. com/