⑴避難所生活の始まり
このような状態の中、牡鹿総合支所で5日間避難所生活を送りました。
その間、少しでも被災者の方々のお役に立ちたいという思いでボランティアに心が
け、犠牲者には深く祈りを捧げておりました。
この体験が後の被災地でのボランティアと月命日の慰霊に繋がり、次第にみちの
く巡礼の活動に発展しました。
左奥が避難所の総合支所、手前は市営住宅 後日ボランティアに訪れた時の写真
⑵ごった返す避難所
館内に入り、先ず一階の事務室に立ち寄って事情を話すと、すでに我々のことは
聞き及んでいようで、二階にある受付へ行ってくださいと案内されました。
二階の3部屋が避難所になっており、どの部屋もごった返しています。廊下にも人
があふれ、せわしく行き来してます。
総合支所職員である高校の後輩に訊きますと、――鮎川では4箇所の避難所に約
800人が避難していて、この支所には、最も多い約200人以上が避難していしてい
るとのことでした。
船で聞いた情報では、二人の仲間はこの避難所にいるはずなので、名簿を見せて
もらったところ、二人の名前がまさしくありました。これでひとまず安心です。
受付簿代わりのA4版の紙に、住所、氏名、フリガナ、年齢、電話番号を記入し
ました。その名簿は、各自がバラバラに記入するので、まるで色紙のようで、非常
に読みづらいものでした。この時の体験から、後に自分が各地の被災地を回った時
に、PCを持参して、避難者名簿記入用意作成の奉仕を申し出るようになったきっ
かけでした。
受付が済むと担当の人が「お仲間の二人はこの部屋です」と言って、
我々が入る部屋へ案内してくれました。
中をのぞくと、畳一枚程度の広さに3~4人ほどが座っています。ものすごく
窮屈な状態でした。
その中から二人を探しましたが見当たりません。
手分けして建物内外を探したが結局見つかりませんでした。
無事なことがわかっていても一時も早く元気な顔を確認したかったのです。
総合支所の内外を探しても見つかりませんので、外へ出て二人の仲間を待ってい
ると、30分ほど経って二人はやっと現れました。
「お前たち一体どこへ消えていたんだ~? 心配してたぞう」と、言いながら
も、全員喜びにあふれ、両手でしっかりと握手し合いました。
⑶教訓:家を離れるときは持病薬の持参
仲間の一人は心臓が悪く、長期戦に備えて、津波被害を免れた病院に薬をもらい
に行って来たとのことでした。このことは大きな教訓です。
「旅先でいつ災害に遭遇するかわからない。常備薬持参&携帯電話充電」
※私は、現在は持病をたくさん持っていますので、外出の時は必ず、持病薬や保険
証を持参しています。また、スマホは100%充電していきます。
⑷金華山からの18名が3階へ・避難部屋作り
全員そろったので入室ということになりますが、割り当てられた部屋は既にすし
詰め状態で、13人が加わればさらに窮屈な思いをさせてしまいます。
それでは地元の皆さんに気の毒なので、しばらくは廊下で待機して様子を見ること
にしました。いざとなったら山用の防寒具を着て、廊下で寝ようと考えました。
割り当てられた部屋の前の廊下で立ち話をしながら様子を見ていると、職員の方
が我々を呼びました。
「あなた方13名の他に県外の方が5人、地元以外の方が18名いらっしゃってます
ので、3階の会議室を使っていただくことになりました」と説明して、案内してく
れました。
3階に案内されたのは我々以外に、東京と大阪から来た金華山観光の若者たち3名
(男子1名。女子2名)、青森県五戸から来た50代の農家のご夫婦の18人でした。
支所職員の方は「地震以来、手が回らずそのままになっています。大変申し訳あ
りませんが、片づけて使っていただけると大変助かります」と、すますまなそうに
頭を下げて、そそくさと1階に戻って行きました。
職員の方々の多忙ぶりを目にしているだけに、我々こそ逆にすまない気持ちでい
っぱいでした。少しでもお役に立てるだけに気持ちが多少楽になりました。
⑸避難所生活拠点づくり
我々はご恩返しの気持ちを強く持っていました。とにかく、暗くなるまでに復
旧させようと思いました。
ところが、早速作業に取り掛かろうして、部屋の前に立って驚きました。
ドアの前に書棚(ガラス戸棚)が立ちはだかって開きません。ドアの近くにあった
戸棚が地震で移動したらしいのです。
さてどうしたものか?と思案しました。
廊下側の窓ガラスが破損していますが、大人が入るほど大きくはありません。幸か
不幸か、幸い第1会議室との間が壁ガ大きく壊れていて、人一人が何とか通れるので
す。もっけの幸い、その穴から第1会議室に入ることが出来ました。
床一面にガラスが散乱し、書類や本が散乱し、机やいすがほとんど倒れていまし
た。 地震当日経験した金華山の待合室での様子が、改めて思い出しました。
こんなことで驚いてはいられません。とにかく暗くなるまでに復旧させるしかな
い! 頑張るのみ!の気持ちでした。
まず入り口付近を塞いでいる机やイスと危険なガラスの撤去から始めました。こ
の作業では山用の靴、手袋、帽子が危険防止に大いに役立ちました。全員がそれぞ
れがなすべき作業を見つけ、共同作業は効率的に進みました。他の若い3人グルー
プも、我々ロートルに引きずられて結構動きました。
その甲斐あって日没前にはねぐら作りは完了。 ほっとして外を見ると、がれき
に覆われた鮎川の街の跡に一面に夕日が光を注いでいます。
《太陽は被災にのような悲惨な場所にでも平等に光を注いでくれるのだなあ》
と思うと、思わず太陽に感謝し、感激しました。希望を持たせる状景でした。
⑹ 夕食とボランティア志願
ねぐらの整備が終わった5時ころに夕食になりました。
小さい玄米おにぎり1個、水が紙コップ半分でした。
断水なので水は貴重品なのです。
この避難所では午前10時と午後5時の二食です。
この紙コップと割り箸は、以後の食事の「マイカップ&マイ箸」となりました。
各自しっかりと油性ペンで記名しました。
鮎川は孤立状態なので人的支援はまだまったく期待できません。
我々がボランティアを申し出ると市職員の方は大変喜んでくれました。
主な仕事は給水車からの水の運搬、食料の分類と整理、そして食事の配給でした。
もちろん、他にできることがあれば何でも言ってくださいと申し添えました。
何らかのご恩返しができることは、むしろありがたいことでした。
シルクロードメモリー・心の目