未来の命を守りたい

   駅に着いて、Mさんから真っ先に出てきた言葉は、

  「みちのく巡礼の活動で、最もやりたいことは何ですか?」でした。

  その言葉に応えて爺ちゃんは、

  「生かされた命」を未来の尊い命を守る事に役立てたいのです」

  と、熱く語り始めました。

 

   みちのく巡礼では、東日本大震災犠牲者を悼むと共に祈る人たちの心を癒し、

  災害の記憶と教訓を後世に伝える「祈り・伝承・防災」の道を創って、

  未来の命を守る色々な活動を行っています。

  主旨は「祈り・伝承・防災」で、キャッチフレーズは「千年伝えて未来の命を守る」

  です。

   祈りの場として祈る人々の心を癒すだけでなく、震災の教訓を後世に伝え、

  「自分の命は自分で守る防災精神の啓蒙」を大切にする活動を続けて行きたいので

  す。

 

  みちのく巡礼活動開始の動機

  みちのく巡礼創始者の爺ちゃんは、震源地に震源地に最も近い島金華山で東日本

  大震災に遭い、3度の危機に襲われましたが、幸いに命拾いしました。

 

 

   津波が去って平静を取り戻した時、

  〈自分が助かったのは、何か大きな力によって生かれたのではないか?〉と思っ

  たのです。同時に浮かんだのは、6回の四国遍路でお接待してくれた人たちが口に

  していた「人のために役立ちなさいと、お大師様に生かされています」いう言

  葉でした。この二つが結びついて、

  「生かされた命」を未来の尊い命を守る事に役立てたい」と思い立ったのです。  

  この思いが、現在行っている「みちのく巡礼」の活動の動機になりました。

 

   東日本大震災で一番悔しかったこと   
  「私は被災地で《早く逃げてくれさえすれば…》の言葉を何度も聞きました。

  すぐ逃げさえすれば2万人以上の命を奪われることはなかったと、自分も今だに

  悔しくて悔しくて仕方ないんですよ。それが活動のモチベーションにもなってい         るんです」と心情を吐露しました。

        

  そこで活動主旨を「祈り・伝承・防災」とし、

  祈りの場として祈る人々の心を癒すのみでなく、

  震災の教訓を後世に伝え、「自分の命は自分で守る防災精神の啓蒙」を大切にする

  活動を続けて行きたいのです。

 

  活動開始まで

      避難所生活の後に自宅へ戻ってから、自宅の復旧に精を出しながら、せっせと被

  災地に足を運びました。

  そして、多くのご遺族から早く逃げてくれさえすれ》の言葉を何度も聞くよ

  うになりました。

  ご遺体搬送や仮埋葬の場に居合わせることも少なくありませんでした。

  もうこのような哀しい場面があってはならないと強く思いました。

 

  このような状況の中

  で、しっかりと、未来の命を守る活動を続けて行くことを自分に言い聞かせまし

  た。 最も大切なことは、何よりも「避難」です。

   

  津波避難3原則

  「より早く、より高く、てんでんこ」

      この津波避難3原則は、みちのく巡礼創始者の

  ・東日本大震災体験

  ・被災地の多くの皆さんからお聞きしたこと

  ・津波石・津波記念碑・伝承碑から学んだこと 

  ・テレビ・新聞・本・などで学んだ知見

   に基づきます。

 

  [より早く]

   これが最も大切です。 地震が来たらすぐ逃げましょう!

  東日本大震災の時、すぐに逃げれば2万人以上の大切な命が失われることはなか

  ったはずです。これを考えると、今でも悔しい思いがします。

   この悔しい思いが、みちのく巡礼千年伝えて未来の命を守る"活動の大きなモチ

  ベーションにもなっています。

 

  [より高く]

 遠くに逃げるよりもよりも、近くの高い建物などに上ることを勧めます。

  東日本大震災の時、車で逃げようとして渋滞に巻き込まれたり、車お惜しんで命

  を失った例をたくさん聞きました。

  日頃から避難する高い場所を決めておくことをお勧めします。

 

  [てんでん]

   三陸などの頻繁に津波に襲われている「津波常襲地」では、

  「津波てんでんこ」という合言葉・標語が定着しています。

  私も沿岸地域(東松島市)に生まれ育ったので、昔から「津波起きたらてんでん

  こ」という言葉を聞いていました。この言葉は、津波が迫る際,一人一人が家族

  にも構わずに自分の命は自分で守ることを最優先して必死で逃げるように求める

  ものです。

  東日本大震災の時も家族を思うあまり共に命を落としてしまった例をたくさん

  見聞きしました。”家族も逃げていると信じて”自分の身を守る行動を優先すべき

  と、東日本大震災以後はこの思いに納得するようになりました。

 

  ・家族の絆を大切にして、津波後の落合う場所などを日頃から話し合っておくと

   よいと思います。

  ・旅先へ行ったら先ず、災害に遭遇したらどこへどのように避難するかを自分で

   考えたり地元の人に聞くことが大切です。

  ・通勤・通学途上でいつどこで地震・津波などの災害に遭遇するかしれません。

   迅速、適切に対応できるようにシミュレーションしておくことをぜひお勧めし

   ます。

 

   爺ちゃんの東日本大震災体験から活動まで

   幸運な救出で鮎川港へ渡り避難所生活

   津波が収まった後、金華山にある黄金山神社を頼ってお世話になりました。

  長期逗留を覚悟しましたが、幸運にも翌日午後、神社の工事をしていた人たちを

  迎えに来た船に便乗させてもらい、近くの鮎川港に渡ることが出来ました。

  

   しかし船を降りて真っ先に目に入ったのは、街並みがことごとく「がれき」に

  変わり果てたこの世の光景とは思えない衝撃的な姿でした。当時は「がれき」と

  いう言葉もほとんど聞いたことが有りませんでした。

 

   そんな状態の中で、5日間避難所生活を送りました。

  その間、少しでも被災者の方々のお役に立ちたいという思いでボランティアに心

  がけ、犠牲者には深く祈りを捧げておりました。

  この体験が後の被災地でのボランティアと月命日の慰霊に繋がり、

  次第にみちのく巡礼の活動に発展しました。

 

  の場創設の動機になった母子の祈り

   避難所生活3日目の夕方、鮎川浜に出てみると、

  祈るものとて何もない砂浜で小さな女の子と母親が一輪の野の花を丁寧にていね

  いに砂の上に手向けてひたすら祈り始めました。

  

   その姿を見た瞬間とめどなく涙があふれ出てはばからず号泣しました。「祈り

  の場があればなあ…」と心から思いました。

  これが遺族のために祈りの場を創ってあげたいと思い立ったきっかけです。

  組織は後に法人化して非営利「一般社団法人みちのく巡礼」になりました。

   その後20枚ほどの写真を見せながら、震災体験や自分たち「みちのく巡礼」の行

  っている活動について話しました。

   

   3日間同行したMさんとのいち駅でお別れしました。

  「R君、あと二日、東日本大震災で亡くなった子供たちのことをしっかりと祈っ

   て上げてね。Sさんお元で活動頑張ってください」と、笑顔で下車しました。

 

   震災後間もなく書き綴った、活動への熱い思いを紹介します。

 

  凛とした背中~活動へ熱い思い

  古希を迎え、人生の集大成として、とてつもなく大きいことに取り組み始めた。

  東北に「東日本大震災への祈りと伝承の道」を創ることだ。

  私は震源地に最も近い金華山で大震災に遭遇した。

  建物崩壊の危機、がけ崩れ最中の津波避難、さらには巨大津波の高台襲撃を受け

  ながらもピンチを潜り抜けて九死に一生を得た。

  天からか大自然からかそれはわからない。 

  何か大きな存在に生かされたような気がした。

  「人のために役立て!」と、 ドンと背中を押された思いがした。

 

  その後、被災地に足しげく出向いてボランティアに励み、

  被災者の気持ちに寄り添った。

  被災地の人々は、亡くなった人たちに手を合わせる場がほしいと言う。

  亡き身内や知人を悼み自分自身も癒される

  ――そんな祈りの場が欲しいと切々と訴える。

  被災地以外の人々も、犠牲になった人びとに祈りをささげに行きたいと言う。

  そんな願いにぜひ応えたい――と強く心が動いた。

 

  震災一年後、小学四年の孫と二人で 四国八十八ヶ所を歩いた。 

  東日本大震災の犠牲者を追悼しながら、

  孫や四国の人々に震災を語った。

  

  遍路で出会った多くの人びとから

  西日本では南海トラフ巨大地震や首都直下型地震が予想され、

  全国各地でどんな災害が起こるかわからない。

  四国遍路が阪神淡路大震災の祈りの場になっているように、

  東日本大震災犠牲者慰霊の場が

  将来いろいろな自然災害の祈りの場になってほしい、と励まされた。

 

  こんな経験から、震災犠牲者追悼の巡礼の道を東北にも創ろう――。

  これが自分に課せられた使命だと強く思った

 

  財産、人生、歴史や文化まで全てを破壊し尽くした大地震と大津波。

  多くの人々に苦しみと不安を与え続ける放射能。

 

  大きな犠牲と苦難の体験から人々が学んだ貴重な教訓を、

  後世に伝えなければならない。

 

  今までの人生は、これをやり遂げるための 基礎造りだったように思える。

  今までとは一味違った凛とした人生模様が、

  この歳になって自分の背中に描き加えられたような気がする。

 

    

 

   シルクロードメモリー・心の目 

 

 

2004年当時

私私