神峯寺への道概要

 弘法大師御霊跡

  吉良川から国道を北西に8キロ弱歩いた奈半利に弘法大師御霊跡があり、

 地元の人々に厚く信仰されています。

 ここで3人で、東日本大震災犠牲者鎮魂・復興を祈って手を合わせました。

  今回の爺孫遍路はこれまでの爺ちゃん一人の遍路とは異なり、

 東日本大震災犠牲者鎮魂・復興祈念というミッションを持っている事と、併せて孫

 の心身育成も兼ねていることです。

 

 

   その先の羽根からは国道を地の道で中山峠を越えました。

  やはり地面の歩きは足に優しくて快適です。

  接待所「遍路駅奈半利」で水分補給し、一息ついて奈半利の街に入りました。

 

  中岡慎太郎の生家と中岡慎太郎館

   前回・6回目の遍路では、幕末の志士中岡慎太郎の復元生家にも足を延ばしてみ

  ました。奈半利川に沿って北東に約7㌔歩いた北川村柏木の集落にあります。

   裏にあるナツメの木の切り株は、慎太郎がよく登って遊んだ木とも伝えられて

  おり、また、近くの松林寺境内に遺髪が埋葬されているほか、すぐそばには、

  中岡慎太郎館もあり、慎太郎の歴史を感じることができました。

   大庄屋の息子としてこの地に生まれた慎太郎は、北川郷が不作の折には城下に

  出向いて家老と折衝し、米穀の施しを受けたと言われています。後に、坂本龍馬

  と共に薩長同成立に奔走しました。また、禁門の変や四国艦隊下関砲撃事件でも 

  活躍しましたが、慶応3年(1867)、京都近江屋で暗殺されました。若干29歳でし

  た。復元生家を訪れた時は、爺ちゃんは第四の人生を旅行作家として生き生きと

  生きようと張り切っての遍路の途中でしたので、幕末の維新の立役者の一人の、

  太く短い人生に複雑な思いを馳せました。また、禅師峰寺巡拝の後に、33歳で第

  三の人生を決意させた桂浜へも立ち寄り、第4の人生への決意を報告しました。

  今回の遍路の最終日にも孫と一緒に桂浜を訪れて、みちのく巡礼の活動への決意

  を述べ、爺孫鎮魂遍路締めくくりにいたします。 

 

   今回は、24番最御崎寺へ巡拝する前に既に室戸岬にある中浜慎太郎の像を孫と

  一緒に見つめながら、中岡慎太郎や坂本龍馬の活躍を話したり、最終日には桂浜

  にで遍路の締めくくりをすることを予め話しました。

 

既に孫と訪れた室戸岬の中岡慎太郎の像   復元された中岡慎太郎の生家 壁にに掛けられた肖像画 

 

  奈半利からは国道を北上しますが、安田川に手前で再び旧道へ入りました。

 

  奈半利から神峯寺へ向かうには、安田川を過ぎて、一旦内陸側に入ります。奈半 

  利からは9kほどです。

 

 神峯寺

  岩崎弥太郎の母のエピソード

   神峯寺は神峯山(標高632m)の山中にあります。

  寺に行く道は、勾配45度の急坂が約1㌔も続きます。  

  神峯寺は出世の御利益があるとされ、幕末の頃、後に三菱財閥の基礎を固めた岩

  崎弥太郎の母が息子の開運を祈って20㌔離れた家から往復40㌔を21日間、しか

  も裸足でこの坂を上って寺に通ったというエピソードは高知県では有名です。子

  を思う母の熱意と愛情ですね。

  遍路宿の女将さんたちから何度も聞いていました。

  この坂道は「まっ縦(たて)」とも呼ばれ、弥太郎の母の言葉を借りれば、

  土佐弁で言うなら「まっこと、きちゅう坂」ということになります。

 

   これまでの爺ちゃんの6回の遍路ではいつも喘ぎあえぎ上っていました。

  その度に「苦あれば楽あり。楽あれば苦あり」を噛み締めていました。

  まさに「遍路即人生」ですね。

  このような苦しみがあるからこそ楽しみと充実感が増すんだと思います。

  これが歩き遍路の醍醐味であり「四国歩き遍路の四国歩き遍路たる所以」です。

  これがないと単なるお寺巡りになってしまうでしょう。

  短期間ではありますが、孫にもこれを味わってほしかったのです。

 

 

  ついに関所寺 神峯寺到着 

   三人はまっ縦を上り詰め、ようやく二層の門にたどり着きました。門の右とな

  りには神峰神社の鳥居が立っています。

   「神峯寺は関所寺だよ。覚えているか?」「憶えてるよ。立江寺!」「ご名答!」

 ――「お大師さまの審判を受けて、邪悪なものはここより先に進めない」と言われ

 ているお寺のことを「関所寺(せきしょでら)」と呼ぶんだよな。各県に1カ所ずつあ

 って、徳島県は19番札所立江寺、高知県は27番札所神峰寺、愛媛県は60番札所横峰

 寺、香川県は66番札所雲辺寺が、それぞれ関所寺と定められているってことも教え

 たよな。Rは立江寺が通れたし、あれからもだんだん良くなって来ているから大丈

 夫だよ。きっと」

  三人とも無事通れました。

  「本堂までまだかなりあるし、石段もきついけど最後の頑張りだ。参道には見ど

  ころが結構あるんだ。烏枢沙摩明王なんていうユニークな仏様やカラーの不動明

  王なんかあっておもしろいぞ。さあ出発!」

 

 

 

  シルクロードメモリー・心の目

  砂漠地帯でバスは中々来ません。近くの農家でバスの時間を訊くと、「明日まで 

 来ないと思うよ。良かったら今日はうちで泊まりなさい」と誘ってくれました。

  翌朝、お礼の心で10ドル差し上げようとすると、主人のアリさんは「ばかにす 

 んじゃないよ!」と、すごく怒りました。旅人を大切にする精神を踏みにじった格

 好になったのでました。素直に謝りました。それ以後は、親切を受けた時には、感

 謝の心を十分表すことに心配りをすることに気を付けました。当時は性能の良い日

 本のボールペンが喜ばれましたが、今はどうでしょう? 日本に帰ってから日本の

 文化や絶景の写真の絵葉書にお礼の言葉を書いて出すようにしました。

  案内してくれた人の家に招待を受けました。

  イランの家庭を見ることが出来ました。

 イランでは、社会はともかく、家庭ではむしろ女性上位でした。一度西欧化した経

 緯を持っているからかもしれません。

 

 日本が懐かしい、恩返ししたい

 街で出会った人に、日本の方ですか?と、ちょっとたどたどしい日本語で声掛ける

 中年男性がいました。日本で働いていた時にとても親切にしていただいたので、懐

 かしいです。是非とも家に来てくださいと、連れていってくれました。とてもホッ

 トでした。