⑴がれきで埋まった東名運河沿いに野蒜駅に向かう

  鳴瀬川と松島湾を結ぶ東名運河沿いに野蒜駅に向かった。

 東名運河は伊達政宗の名前を取り貞山運河とも呼ばれ、伊達藩の物資を仙台と石巻

 間を船で運搬する重要な輸送路であった。

 

  震災前の東名運河は静謐はだったが、震災ですっかり変わってしまった。

 運河沿いの道路にはがれきが積もり、これを乗り越えながら進むしかない。

 数メートルの深さがあった運河はがれきや泥でうずまりすっかり浅くなっている。

 津波は防風林の松をなぎ倒し、家や車やがれきを運河に押し流したのだ。

 

 

         震災前東名運河は静謐で漁船やボートが行きかっていた。

 

 

 

  そんな危険な運河の中で、自衛隊員が腰まで水に浸かりながら、

  ひたすら遺体の捜索を行っていた。

  これまでの被災地でも、隊員たちの献身的な働きぶりに目頭が熱くなり、涙をた 

  めたことがあった。

⑶70人の命救った手作り避難所「佐藤山」

野蒜駅近くに佐藤山と呼ばれる手作りの避難所があります。下の地図<1>
 
   私がその近くを歩いていた3月17日の日にはその存在がわかりませんでした   
  が、帰宅後テレビや新聞で存在を知り、後日訪問してお話を伺いました。
  登り口に「災害避難所(津波)」と書かれた看板があり、お 年寄りでも上れるよ     
  うに段差は低く、手すりもありました。平らになった頂上には、8畳の小屋とあ 
  ずま屋、海を見渡せる展望台が立てられていました。
 
 佐藤山入り口                避難所
 ――これを創ったのは地元でタクシー経営を行っている佐藤善文さんです。
  佐藤さんは、仕事で沿岸部へ観光客を案内していた時に、 1960年 の チリ地震津
  波と同規模の津浪が発生した場合の避難誘導対策が必要と考えていました。そこ
  で退職金をもとに 、周囲からは「津波なんてここまで来るわけがない」と言われ
  ながらも、約10年がかりで30m程の岩山に一人でこつこつと避難所を創りま
  た。 
  佐藤さんからお聞きした所によりますと、
 
  ――東日本大震災で地震発生時、佐藤さんが4人の家族と犬を連れて登ると、す
  でに40人ほどがここに避難していました。津波は「ブォー」と膨れ上がって押
  し寄せ、立ち木や家屋がなぎ倒される音がバリバリと響きました。

  いったん波が引いたあと、「第2波には耐えられない」とさらに人がやってきた    

  「線路の辺りで波に巻き込まれた」という傷だらけの男性など4人も流れ着 きま

  した。避難した「佐藤山」の人々が棒を差し出して引っ張り上げました。

   避難者は70人ほどになり、お年寄りやけが人は小屋でストーブをたき、男性

  陣はあずま屋で たき火をして夜を明かしました。

  夜が明けると、1960年のチリ地震による津波でも床上浸水だった周辺は、流失し

  た家屋やがれきで埋め尽くされていました。避難した人の一人Aさんは「『ここ

  には大きな津波は来ないよ』と佐藤さんの作業を半ば笑って見ていたけど、先見

  の明があった」と感謝したとのことでした。。

  この場所が約70人の命を救ったのです。人命救助に果たした役割は大きいもの
  があります。
  震災後は、高台避難の重要性も再認識されています。
 

一般社団法人みちのく巡礼 [ホームページ] http://michinoku-junrei. com/