第十回「越州攻城戦」㉑ | 道草days

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まだまだ知らない”日本”に出掛けてみませんか?

 

更に福井城の遺構探しをしてみましょう。グラサン

 

 

本丸の西側は一見、何の変哲もない公園になってますが…

 

 

二の丸の堀の一部が広場という形で再現されています。

 

 

 

ちなみに公園の端には三の丸の堀もイメージして再現。

 

こういうさりげない再現方法や利用方法は今後の城跡の整備や活用方法のお手本になりそうな感じですね~グッ

 

 

外堀は今も健在。生活に溶け込んでるなぁーニコ

 

 

 

その外堀を辿って行くと見えてくるのが舎人門(とねりもん)。

 

 

どうやら門の奥にある郷土歴史博物館建設の時に発掘調査して復元されたようですね。

 

 

そんな舎人門に使われてるのは「三つ葉葵」の紋。

 

これは福井の城主が徳川とか松平の関係ある人っていうのを現してますね。

 

 

有名な城主でいうと幕末の四賢候として名高い松平慶永。

 

雅号(自身が愛用したニックネーム)である「春嶽」の呼び名で広く知られている人ですね。

 

まあ、この人を筆頭に代々越前松平家が治めてきたのが福井なわけですが、そこに城を築いたのが…

 

 

結 城 秀 康

 

 

結城…って誰?ってなる人もいるかもしれませんが、実はこの人、徳川家康の次男。

 

亡くなった兄に代わって、徳川の家督を継ぐ可能性もあった人物ではあったのですが、色んな理由(母の身分が低かったり、秀吉の養子に出されたり)で家督は三男・秀忠が継ぎ、次男・秀康は最終的に北関東の大名・結城家の養子に収まる事になります。

 

 

そんな関東の一大名だった結城秀康が越前に来るきっかけになったのが会津征伐。

 

簡単に言うと秀吉死去、利家死去と豊臣家の力が弱まる中、政治的な発言力を強めていった家康が領国内に新たな城(神指城)を築こうとしていた上杉景勝に対し、これを”不当な軍備増強(いちゃもん)”として徳川軍が征伐に乗り出した事件。

 

徳川軍は江戸から途中の小山(下野国)まで進軍しますが…突然、畿内で石田三成が挙兵。

 

これを受けて東海道から家康が、中山道から秀忠が三成討伐(関ヶ原の戦い)へ向かったわけなんですが、その際に上杉軍に追撃されない様に宇都宮に留まったのが結城秀康。

 

結局、上杉は上杉で家康を追撃する為には背後にいる最上義光を叩く必要があった(慶長出羽合戦)ので秀康が上杉軍と直接やり合う事は無かったんですが、関ヶ原の戦いの後の論功行賞において(結果的に)上杉を抑えた功を評価され、加増第一位を獲得(下総結城10万1千石→越前北ノ庄68万石)。

 

 

こうして秀康は北ノ庄(福井)へ来る事になったってわけなんですね。

※のちに松平姓への復帰も認められたようです。

 

 

家康の次男、秀康の城下町・福井。

 

幸福度も高く住みよいこの街はジュラシックな時代から現代まで愛されてきたそんな土地なのかもしれませんね。

 

 

 

 

と、いう感じで北信越(北毛・東信・越国)の旅は無事に全日程が終了。

 

 

最後は小松空港(石川)から福岡へ。

 

4泊5日、大移動して酒を飲み、城に登る。いやーこれは本当にしんどい企画だねぇ…(笑)

 

~おしまい~