第十回「越州攻城戦」④ | 道草days

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まだまだ知らない”日本”に出掛けてみませんか?

 

 龍岡城

簡単に言うと1864年に三河奥殿藩8代藩主・松平乗謨によって築かれた陣屋。

 

 

ちなみにややこしいので説明しておくと”松平姓”には松平元康(のちの徳川家康)の名乗った”宗家の松平さん”以外にも”分家の松平さん”がたくさんいて、この松平さんは分家で大給(おぎゅう)という土地にいた”大給の松平さん”。

 

 

この松平さんは三河国加茂郡大給に陣屋(のちに大給から領内の奥殿に陣屋を移動。大給藩⇒奥殿藩)を構えて領地を治めていたわけなんですが、実はその所領の多くは近畿地方(丹波・摂津・河内)にあるという問題を抱えていました。

 

そこで近畿地方12000石⇔信州・佐久郡12000石を交換。所領も減らず、土地も一括管理出来るようになった事で問題は解決されたように見えましたが…

 

結局、本領(三河・加茂&額田4000石)よりも飛び地(信州・佐久12000石)の方が大きいじゃん!

 

ってな問題は解決されぬまま時は過ぎて幕末。三河奥殿藩の最後の藩主・松平乗謨が幕府に願い出て信州・佐久に本領を移転。(奥殿藩⇒田野口藩※のちに龍岡藩に改称。)

 

これに伴い佐久の地に築城されたのが「五稜郭」。

 

西洋の築城技術を学んでいたという乗謨が稜堡式を採用した事で日本に2例目の五稜郭を誕生したというわけです。

 

 

そんな龍岡城の縄張図がというのがこちら。

 

どうしても星形がクローズアップされがちですが、周りもこんな風に手が加えられてるんですね~ニコ

 

では、縄張図を見ながら攻略していきましょう。

 

 

まず城の南側の防御を担っていたであろう雨川。

 

 

ちょっと草が茂っていてよく分かりませんが、幅が広いというわけでも水量が多いというわけでも流れが速いというわけでもない普通の川。

 

まあ、堀として見ればまあまあな感じもありますけど、せっかく城を築くんであればもっと大きな河川を選んでも良かったのでは?(ちなみに2kmちょいで千曲川がある)

 

 

続いて稜堡①。石垣ががっちり組まれてヴィジュアル的にはかっこいいですが、圧倒的に何か足りない感じが。

 

 

こちらは稜堡⑤。ここも何か足りない気が。

 

 

一体何が足りないのかというとその答えは「稜堡を囲う堀」。

 

 

後世に堀が埋められたわけではなく、どうやら稜堡①と⑤を囲う堀まで手が回らなかったみたいです。

 

(この城、未完成だったのか…)キョロキョロ