"Wo viel Licht ist, ist starker Schatten" part.5 | 道草days

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※2018/8/17のお話です。

 

 

 

最後は天守。

 

大天守&小天守

 

のちに八代に入城した細川忠興が‟過ぎたるもの”と称した八代城の天守。連結式層塔型の荘厳な天守があったようです。

 

 

こちらは天守台スケッチ。 ( 画力が上がっている…!?Σ(・□・;) )

 

 

 

分かりにくいですが、実際の登り口は小天守の下にある傾斜から。多分、階段状になっていたと思われます。

 

そこから小天守の地階に入るという構造のようです。

 

 

小天守は1層目が細長で2層目がちょこんと乗る望楼タイプ(で合ってるのかな?)。地階を含めて3階建てといった感じ。

 

 

そこから橋台で連結されて大天守。(尾張名古屋城のように渡櫓ではなく、左右に塀があるだけのタイプ)

 

 

大天守は城内で最も高い場所にあって高石垣の上に4層櫓(地階を含むと5階建て)。

 

 

天守は1672年に落雷によって焼失。以後、再建される事はありませんでした。

 

 

熊本藩2代藩主・加藤忠広が命じ、筆頭家老・加藤正方が築いた八代城。

 

 

過ぎたるものと称されるほどの天守を持った華々しい見た目とは裏腹に加藤家を確実に蝕んでいく要因の1つにもなっていきました。

 

 

 

"Wo viel Licht ist, ist starker Schatten"

 

強い光は濃い影を生む―――。

 

 

時代を越えても人々に愛され、信仰の対象となるほどの功績を残した加藤清正。

 

肥後を照らすその”強い光”は”濃い影”となって忠広を覆っていきます。

 

清正の下まとまっていた家臣団を若年の忠広は掌握出来ず、重臣の権力抗争に発展し、政治は混乱。

 

清正時代から積極的に行われていた天下普請や領内の新田開発、治水事業。そして、新城(八代城)の築城は民への大きな負担(税)となってのしかかり、村々は荒廃。

 

他にも様々な要素がマイナスの方向へ転じていった加藤家は江戸参府中に改易を命じられ、肥後を去る事になったのでした…。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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