どーも
※2017/1/9のお話です。
伊達政宗が岩出山城に至るまでの経緯に関してはその所領の変遷を見ていくと分かりやすいです。
◎家督相続 72万石
山形南部、宮城南部を治める伊達氏。
岩手南部、宮城北部の葛西氏や大崎氏は伊達氏に従属。
宮城中部の留守氏に関しては養子を送り込みまくってほぼ伊達の傘下と言った状態。
最大のライバルは会津の蘆名氏。
◎最大版図 114万石
蘆名領、留守領を飲み込んだ伊達氏。
従属する葛西領、大崎領を加えると150万石ほどの所領に!
◎奥州仕置 約63万石
奥州半国を得た伊達氏に立ちはだかったのは天下人・豊臣秀吉。
惣無事令違反(蘆名氏との戦いが惣無事令発布以降)と小田原遅参を理由にせっかく手に入れた会津が蒲生氏の手に渡る。
小田原に参陣出来なかった葛西氏、大崎氏は改易され、代わりに木村氏がそこに入る。
と、まあこんな感じで政宗の所領は変化していくわけなんですけど、戦国の世では隣国と戦って領地を切り取ってが普通だったんですが、その仕組みを変えたのが「豊臣秀吉」と「惣無事令」。
これからの時代は何らかの功を挙げて秀吉に領地を賜らなければならなくなったわけです。
そこで政宗は考えます。
自ら戦を仕掛けては領地が減るどころか、改易の可能性もある…。
かと言って戦が起きねば武功を挙げられず領地は増えぬ…。
(; ̄ェ ̄) うーん…
せや、誰かに(戦を)起こしてもろたろ!💡 (・∀・)
てなわけで、旧葛西大崎領で横暴な政治をする木村氏に対して、葛西大崎の旧臣を煽って一揆を起こさせる事を思い付くのです。
それが葛西大崎一揆(木村領GET大作戦)―――。
“これで堂々と戦が出来て、且つ武功を挙げられる!”
狙い通り、秀吉の命により一揆鎮圧に赴く事となった政宗と蒲生氏。
しかし、その目論見はすぐにパートナーの蒲生氏にバレてしまう事になります。
あろう事か、一揆勢に向けた政宗の書状が蒲生氏郷の手に渡ってしまっていたのです。
氏郷「殿下!この書状をご覧ください!」
秀吉「…政宗、この書状はなんや?(半ギレ)」
政宗「…?なんですか、これ?(すっとぼけ)」
秀吉「お前が過去に儂に送った書状と字体も花押も一緒やないかい!(激怒)」
政宗「」
大ピンチの政宗。
書状を見比べ、ここで起死回生の一手を探し出します。
政宗「…殿下、これは偽の書状に御座います。」
秀吉「そんなわけあるかい!(憤怒)」
政宗「本物(殿下に送った書状)には(花押の)鶺鴒の目に針で穴を開けております。しかし、偽物(一揆勢に送った書状)には鶺鴒の目に穴が開いておりませぬ。」
秀吉「あっ、ホンマや。」
秀吉「なんやー氏郷の勘違いかいな。政宗、秀次と家康も付けたるから一揆鎮圧頑張ってな。(ニッコリ)」
てなわけで何とかその場を凌ぎ切った政宗は一揆鎮圧を果たし念願叶って木村領(旧葛西大崎)をGETしたわけなんですが、その代わりに伊達氏が先祖代々持っていた土地を失う事になったわけです…。(約63万石→約56万石)
まあ、何となく政宗が一揆を陽動した犯人だという疑いが晴れなかったってわけですね。(^▽^;)
岩出山城は徳川四天王の1人、榊原康政によって縄張、改修され政宗に引き渡されます。
やや発展しづらい場所。
やや街道から離れた場所。
縄張(構造)を他の者に造らせた城。
これらは秀吉が政宗に変な気を起こさせない為だったのかもしれません。
これから約10年、岩出山城が政宗の居城となったわけです。
まあ、これはグルメネタになりますが、そんな岩出山城の近くにラーメンの名店があるので帰りに寄ってみました。
「いろは食堂 本店」
看板も何もない一見普通の民家のように見えますが…人が続々と敷地に入っていくのでこれがお店だと気づきました。
並んで並んで注文して待って1時間。
ようやく特製ラーメンまで辿り着きました。ズルズル (´π` )
岩出山城攻略の際、寄ってみて下さーい。
part.5へ続く。