Kevin Gerald氏の『神様はいつも善である』、無事に終える事ができました。みなさんの吸収が早いのであっという間の2日間で御座いましたよ。
今日からはまた新たなシリーズの始まり。
『誠実に生きるヒント』、をあなたと共に考えて行きたいと思います。
わたし、現在、40台目前。
生き方、を考える歳に差し掛かりました。
自分にとって。夫にとって。娘にとって。
わたしには、はっきりしたなりたい『自分像』があります。
恥ずかしくない自分になりたい。
家族にとって、わたしにとって、社会にとって、恥ずかしくない生き方をわたしはしたい⋯。
わたし、シングルの時はそれはもう自己中心的で生意気な人物でした。自分のことしか考えない。
自分の世界が全て、でした。
仕事するのも自分の為。
社会の為に何かする、などと言う精神は微塵もありませんでした。
自分、自分、自分。
さて、そんなわたしに残ったもの。
虚無感、でした。生き甲斐が無い。喜びがない。
感謝が足りない。
人間は生来、清く正しく生きたいと望んでいる。
わたしはそう信じています。
どなたも自分の人生を棒に振るような生き方は望んでいない。みな、意味ある生き方、人から必要とされる生き方を歩みたいと考えているのではないか。
今日からのシリーズはそんな我々の生き方の指標です。我々は日々、軌道修正が必要です。意志が強いと思われるアスリートでさえ、毎秒、弱くなりそうになる自分と闘い、勝利を重ねています。
そして、本気のステージではビクトリーを勝ち取るのです。
クリスチャン生活は毎日、毎秒の闘いです。意識をはっきりと持ち、神様と共に進めば踏み外さない。
『勝ち続けることが出来る』闘い、です。
あなたは今日、(もしくは明日。時差あるネ!)勝つ。それはあなたの選択が作ります。
あなたはどんなふうに『今日』、を作っていきたいですか?
わたしは社会に誠実に、家族に誠実に、自分に誠実に生きたい。
⋯では、共に吸収していきましょう!
新シリーズ、誠実に生きるヒント。
誠実さとは何か定義するのは簡単ではありません。
辞書の定義は、「モラルや道徳的原則に従うこと」とあり、また日常生活においては、正直で真であることであります。誠実に生きるうえで、これら2つの定義だけを頼りにしてしまうと、結局は自分中心で判断していたり、他人の目によく見えるように行動していたりということがあります。どちらの定義もまちがってはいませんが、やはり足りないものがあります。誠実さにはそれよりも重要な意味があるのです。
真の誠実さとは単純に、神が正しいとしたことに従って生きることです。
つまり神の教えやみことばにを軸にして発言や行動をするということを意味します。なぜ、神の教えを基準にするのでしょう?それは、神がすべての義を定めるからです。神がすべての造り主であり、わたしたちは神の真理に従って生きるようにつくられたということを理解しなければなりません。
わたしたちはモラルや道徳的原則の指針を神に求めるべく生まれました。それ以外で得られた価値や真理は人間が生み出した価値観に過ぎず、真の誠実さとは言えません。
神の真実こそが誠実な人生へ導く唯一の指針です。つまり、誠実に生きるとは、結果の良し悪しに関わらず、神が良いとしたこと、正しいとしたことに従うということです。
誠実な心は、富よりも貴重で、心地よさよりも重要です。神の言葉がわたしたちの核となる価値観を図り定めを唯一の基準であると信じ、理解することは、直き心を成長させるための第一歩です。誠実に生きるとは何か、真実はどこから生まれるのかを知りながら生きる人生に心を開くよう、決意しましょう。
わたしたちに直き心を与えることができるのは神の精神だけです。しかし、世間のさまざまな人々や出来事はその心を奪うことができます。それらは意図的に、またそうでなくてもわたしたちの誠実さを崩し損なうでしょう。わたしたちは直き心を生まれもってきたわけではありません。それを手に入れるためには、戦わなければならないのです。
深く心に根付いた誠実さを求め戦うには、まず神の真実を、親身に知り、理解し、そして愛さなければなりません。この真実こそがわたしたちの生活に知恵を生み出し、またそれによって善し悪しを判断し、誠実に生きるうえでの軸となる決まりや境界線を日々実践してみることができるのです。
戦うということは、常に見守り、お互いにきちんと自己責任を確認しあう仲間の中に身を置くということです。罪や悪事は気づかないうちに重なり大きくなります。特に責任を取らずに済む場合、大したことがないようにみえてしまいます。わたしたちは、悪い行いを誰も気にしないときや気がつかないとき、モラルや道徳的原則に反した行動をしやすい傾向にあります。自己責任の義務を果たすのは難しいですが、自身の行動や発言の責任をきちんととる上でのカギとなる要素です。
直き心のために戦うことで、神の真実に反する世の中に立ち向かう力をのばすことができます。はじめからあまり大きな約束をせず、新しい仕事や友達の輪を見つけることからはじめるといいでしょう。
戦いだからといって、その末にわたしたちが完璧になるかといったらそうではありません。誰もが皆くじけ、失敗します。どれほど誠実な心を持っていても、誰も完璧ではありません。特に、問題がある時や大変な時、不安や恐怖心を感じる時、わたしたちは間違った選択をしやすい傾向にあります。大切なのは、自身の行動の責任を取り、間違いを認めることです。誠実な心があれば、間違いに気づき、神の恵みと許しを求めることができます。
誠実な心は、あるかないかと決められるものではありません。常に意識して生きるべきライフスタイルなのです。神の真実や知恵を求めるよう意識しましょう。わたしたちの直き心を撮り去ろうとする世の中の人々や出来事に立ち向かい、本当に大切なものを追求するよう決心しましょう。
神の真実でない価値観を優先すると、誠実に生きる道からそれてしまいます。ささいなことだとしても、直き心を傷つけてしまいます。ここで問題なのは、妥協は、正当化につながり、そして混乱を導くということです。白黒はっきりしていた善悪があいまいになり、神の真実に従わなくてもいい時もあると理屈を言うようになります。
一番真実からそれてしまいやすいのはわたしたちの言葉です。話を誇張したり、うわさ話やうそ、できないことを約束したりします。そこから正当化がはじまるのです。うそも方便というでしょう?それに、人の気持ちを傷つけるよりはいい、誰の害にもならないなら大したことはないだろう、といったように白黒ついていた善し悪しが、あいまいになっていきます。
わたしたちの行動が自身のモラルを傷つけてしまうこともあります。許可なしに小さなものをとったり、昼休憩にタイムカードを押さなかったり、他人の手柄を自分のものにしたり。ここでもまた正当化をします。前にちゃんとした評価がもらえなかったからいいだろう、なくなっていると気がつかないだろう、会社は昼休憩分の給料も払えるはずだなど、善悪の境があいまいになっていきます。
言い訳、妥協、理屈によって、神の真実はゆがめられ、わたしたちの人生における神の存在の意味も変わってきます。神はわたしたちの心を見ます。罪や悪事の大きさは関係ありません。白黒はっきりしている神の真実にはグレーゾーンはありません。
妥協するほうが、その時には簡単に見えるかもしれませんが、神の真実が人生に本当の意味を与えます。わたしたちの発言や行動が、わたしたちの信仰に合っていれば、自問自答したり、誰かに見つかることを心配したりに無駄な時間や労力を使わずにすむのです。モラルを曲げ、理屈でごまかすことによって、神がわたしたちの人生に用意した計画をにごらせてしまいます。たとえ大変で困難なときも、いつも神の真実を
優先しましょう。
あなたが求めれば神様は答えてくださります。
不安をひとつづつ解消していく毎日。
わたしにとってクリスチャン生活は謎解きでもあり、愛への挑戦でもあります。
Jesusを代表する者として清く正しく美しく溌剌に!日本で邁進するクリスチャン姉妹兄弟よ。
今日もイエス様に恥ずべき事がないよう前を向いてひかりを発信していきましょう!
そしてクリスチャンでない方も⋯!
ぜひ、聖句を受け取り、考える時間を作ってみてください。
何かのお役に立つことが出来ましたら⋯クリスチャンの我々にとってこの上ない幸いです。
感じ、思い、考える。人間である事を楽しみ、感謝し、活きましょう!