育苗ハウスの後への夏野菜の苗の植え付けも何とか済ませることができた。これで本当の意味での「田植えが片付いた」である、が、もう畦草が伸びてきている。いやはやまったく。
疲れも全く取れない状態ではあるが、気持ちだけは戻りつつある。頑張ってみよう。さて、と。
道風茂/酒井子雲氏の指南を得て、私の音頭も大きく完成へと向かうこととなった。
現在の私のよくやる演目は「明智光秀」「南部坂 上・下」「恩讐の彼方」を軸に、その時々の書下ろしである。つまり、道風茂/酒井子雲氏よりいただいたものが中心となっているのである。
その時の私、40歳になろうという頃であった。声は枯れることを知らなかった。出口氏からお呼びがかかるようになってある事件が起きた。
1990年8月13日、私、42歳、出口氏より音頭の要請があったのは玉城町の勝田というところ。
ところが大雨により、この日の踊りはすべて翌14日に日延べとなった。
盆の14日というのはすべての地区で、最も踊りの集中する日なのである。そこへ13日の分までずれ込んできたのだ。
14日は地元高須での予定であった。共演者、大泉、北出両氏には申し訳なかったが、出口氏の要請に乗って勝田へ向かった。もちろん途中で抜け出すつもりで。つまり掛け持ちである。
もちろんこの事情は、出口氏も同じこと。まずは出口氏、そのあと世古という人、そして私。覚えたての「恩讐の彼方」を。出口、世古ご両人が二席目を短くまとめてもう一つの現場、原(玉城町)へ向かい、私ひとりが残された。
「南部坂」をやったが誰も来ない。続いて「幡随院長兵衛」。まだ来ない。仕方がない。「かわさき」に変えてやれ。踊れることは分かっていた。宮古の青年団が応援に来ていたからだ。
何をやったかは覚えていない。テープがここで終わっている。その途中、やっと二人が帰ってきてくれた。ろくに声もかけずに大急ぎ、高須の会場へ。
10時前には着いたはず。ここで、「かわさき」二席、そして「恩讐の彼方」を演り12時を回ったころ、遅れたる申し訳とばかりもう一席「南部坂」をやりかけたが、さすがにもうやめようとの空気となって手打ちとした。
つまりこの日は正味七席をやったわけである。こんなことができた日もあったということ、帰ることのない昔のはなし。
この日を縮小して紹介したい。それぞれ勝田と高須である。尚、高須の手打ちの後の喧騒は、屋台の飾り花の争奪戦。私に花をよこせと叫んでいるこの声は、よっちゃんかな。ゼンゾヤの。
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