貧脚さんの四国八十八か所 (銀輪流転)

貧脚さんの四国八十八か所 (銀輪流転)

区切りうちで遍路に出てます。1日20~25キロのユルユル、お気楽遍路行の記録です。(自転車活動休止中)

境目の大銀杏に向かいの神社。

 小さな神社ですが、鎮守の森がしっかり残った、良い佇まいの神社でした。

 

 

 もう少し早ければ、大銀杏の黄葉が見事だったでしょう。

10時47分

 星越峠に向けて、県道132号を登っていきます。標高110mなので、大した登りではないはず。

 

 

10時57分

 10分程上(G地図で測ると1k)ると右手に看板。

 

10時57分

 そこに続く道がありました。お遍路地図86ー1は星越峠までは県道132号を進むようになっています。

 四国のみち は県道に平行している未舗装路のようです。

 

 

 

 

 

10時57分

 この左手に、讃岐化学工業(株)白鳥工場があります。

 この辺りが峠。

 

10時57分

 左手に。地蔵二体、「首切り地蔵」です。どのような伝説があるのかは不明。

 

11時00分

 少し下ったところに右分岐があります。四国のみち の木柱が画像の右手にあります。

 四国のみち はここで右折です。

 

11時00分

 進んでみましたが、この先で軽トラックが止まっていました。近くに男性が居たので道を尋ねました。

 この先、暫く進んで道は池に出るとのことで、お遍路地図の星越峠の先の点線道とは違うようです。

 

11時05分

 県道132号に戻ります。右折、大内ダムに向かって下って行きます。

 

11時08分

 この辺りは、右左に曲がっていた旧道を直線的に改良したようです。お遍路地図86-1にある星越峠から先の点線遍路道らしきものは見つかりませんでした。

 お遍路地図は道路改良前のものと推測します。

 

 

11時13分

 現地では、点線遍路道かと思ったのですがG地図と2万5千の地形図を見てみましたが、違うようです。

 

11時18分

 この道、確かにゴミが多かったです。

 

11時21分

 右手に駐車場を通りすぎて程なく、「大内ダム公園」の看板が見てきます。

 

 

11時21分

 ダム管理事務所に続く道を進みます。

 

11時21分

 

 

11時23分

 右手にトイレ他の施設があります。

 菓子パン昼食で、小休止。

 

 

11時31分

 12時には與田寺に着きたかったのですが、遅れています。もう少し、休んでいたかったのですが出発。

 

11時32分

 管理事務所の前を通り過ぎて、ダム堰堤の手前の下り路に進みます。

 かなりな斜度です。つま先、痛いくらい。

 

 

11時33分

 右手は、浄水場。

 

11時34分

 突き当たり舗装路を左。電柱に遍路マークあります。

 

11時34分

 

11時35分

 県道129号に出て、右折です。正面は那智山。

 

11時35分

 

11時36分

 無人販売所。ネリネの花。

 

11時36分

 看板の鳥は、ジョウビタキですよね。

 

11時38分

 立派な神社が左手に。お詣りしました。

 

11時42分

 振り返り画像。

 

11時47分

 右分岐。旧道に向かいます。

 

11時51分

 与田川の右岸を進んでいきます。

 

11時51分

 何でもない景色。

 

11時54分

 25年は、柿が豊作だったようです。どこも柿がたわわに実っていました。

 

11時55分

 三叉路。左手です。電柱の手前に 四国のみち の道標があります。

 

11時57分

 潜水橋といより、堰の上が道になっているみたい。

 

11時58分

 信号交差点は県道。その手前を右折。

 

11時58分

 

 

11時59分

 直進です。

 

12時00分

 

12時01分

 県道に合流しました。火の見櫓。半鐘があるし、現役かな?

 

12時03分

 四国のみち はここを左折。ガードレールに色褪せた、保存協力会のではないお遍路矢印も左。

 お遍路地図86-1の指示は次の交差点を左折。

 

 

12時05分

 ここで左折です。

 

12時06分

 

12時08分

 12時03分の地点で左折した道は、ここで合流します。

 

 

12時09分

 高速道路側道との信号交差点。

 この左手に 滝の宮八坂神社 があり、お詣りしときました

 

12時12分

 登り坂の手前に右分岐。四国のみち 道標があります。

 

12時16分

 

12時18分

 大きな楠。與田寺の駐車場。

 

12時19分

 與田寺着。

 

 

 與田寺は、思っていたより大きなお寺でした。

 第81番白峯寺の西の麓の遍照院松浦寺でお聞きしたように、「厄除け」としてその時期は参拝者で賑わうようです。

 この日は、平日で「厄除け」シーズンでもないので、静かでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 トイレの 明王様。

 

12時37分

 與田寺発。

 区切り打ち遍路の初回に、道半ばで倒れた遍路の霊が杖に付くとの話を聞き、その顛末は既に記事にしました。

 

 

 お遍路の道中、不穏、不吉な気持ちに襲われたのはあの時だけでした。

 霊の存在については、信じているほうではないけれど、否定しきれる程の強い確信もありません。死後のことは判らないのが本当のところ。

 末尾にお遍路資料の梅村武氏の記事を引用しますが、昔の遍路は今の遍路とは随分と異なったものでした。こんな話は楽しくないので、記事にするのもどうかとも思いながら、私の心持ちの記録として残しておきます。

 

 お遍路をするうち、足摺岬:第38番金剛福寺をお参りする頃の後先だったのか、心持ちに変化がありました。

 別格第9番文殊院か第51番石手寺にお参りする頃には、かなり心持ちの輪郭がはっきりとしてきました。

 

 途上で倒れられたお遍路は、弘法大師にお会いできたのだろうか?

 お会いできず、まだこの世に残られている霊があって、杖に宿られるのであれば、お運びしましょうと。 

 そんな気持ちが、心の片隅にありました。以来、遍路墓が不吉なものではなくなりました。

 

 ☆ 本当は、完全になくなっている訳ではないのですが、

   それ程大きいものでは無くなりました。

 

 金剛杖を納める時、お運びした霊の供養になればとの気持ちがありました。

 

 ☆ 家に置いていても粗略な扱いになるし、それもどうかなあ

  は、正直ありましたけど、、、。

 

 人の心は、一色ではないし、移ろうものです。それはまた、別の話だけれど。

 

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梅村武著 「四国遍路シリーズ へんろ道 讃岐編」P304

 

 昔の四国八十八カ所霊場の遍路は、三六〇里、四〇~六〇日の道程と云われ、それは生易しいものではなかった。山坂難所に倒れて途中で死ぬ遍路も多く、へんろ道筋に今も残る多くの遍路墓がそれを物語っている。

      (中略)

 しかし、こうした墓石が建つからには、少なくとも乞食遍路ではなかった筈である。

 だが、当時不治の病として社会から締め出された癩患者等のように故郷を追われ、八十八カ所巡拝を終えてたとしても再び故郷に帰ることもこともならず、寺の門前にむしろを敷いて、僅かな施しを受けながら死ぬのを待っている遍路も多かったという。

 こうした遍路にとって四国は「死国」であり、その果ては無縁仏として埋葬され、卒塔婆の刻みのついた遍路杖が墓標となった。

 

と、

 第88番大窪寺の近隣には夥しい遍路墓があったが、造成工事により整理されて行く状況に触れ、昭和63年4月に記しています。

 

 梅村武氏は、大正15年今治市の生まれであり、昔のお遍路の肌感覚をより深くご存知なのです。