今世間で重宝されているのはエンジニア的な思考法である。タイパやコスパはそのような思考である。彼らは如何に早く物事を片付けるかや、如何にコストカット出来るかばかり考えている。
だが、人間の人間たる本来の思考はこれに相反する。その本来の思考とは何かというと、解釈である。
例えば赤ん坊が泣く。その意味ははじめは分からず戸惑うだろう。だが次第にこれはご飯を欲しているや、これは眠さを訴えていると分かってくる。そういうのが解釈である。
これは帰納的な思考法である。前にそうだったから、今回もそうだと分かるのが帰納である。そういうのは何も赤ん坊の反応だけではなく、会話にしても、スポーツにしても何もかもこの帰納が脳裏に働いている。
そういうのが本来の思考である。何度も同じことを同じように繰り返す。非効率だろうし、コストなんてそんなことは端から考えてない。そういうのが思考の根幹である。そうして繰り返されたものは習慣や常識と言われるようになる。
ところが、エンジニア的思考は毎回1回きりのことを考えている。その都度タイパを気にして、コスパを気にしている。同じことの繰り返しでは、物価の高騰にも対応できない。
だから、それが習慣や常識になることがない。むしろなってはならない。そういう習慣や常識のないところに人は長く居座れない。そこで本来の帰納や解釈に戻る必要が出てくる。
今の社会というのはその本来の思考から遠ざかろうとしている。電車で泣く子どもがいれば顰め面をし、困ってる人がいても手を差し伸べるのでもなく、何もしない。
それが人間としての社会かと言われると僕は人間を置き去りにした社会だと思う。
エンジニア的思考をすべて否定するわけではない。それが必要な時があるのも分かる。けれど、それのみの思考となれば、人の居場所は奪われていく。今はそういう時期にいるように思う。
ではどうするのが良いか。それは色々なことに関心を持つことである。無関心で人の声をノイズとしか思わないとすると人生を楽しめない。それを楽しむ余裕が必要である。 切羽詰まってコスパだのタイパだの言っていたら楽しむことの土壌に立てない。
そうして余裕を持つためには知識がいる。自己に習慣や常識が備わっていないとならぬ。全く分からぬことははじめは楽しめないが、繰り返すことで楽しめるようになる。それは自己にとり、常識や習慣になるということである。
その余裕をなくして何もかも新しいものとして、1回きりのものと諦念してるのが現代である。三カ月前の歌の話が古い歌となる、それは異常な世の中である。
そうでなくして、習慣や常識はそれとして持ち、新しいものは新しいものとして余裕を持って楽しむ、そういうのが解釈や帰納に根ざした人としての行為である。
そういうのに慣れると世界は変わって見えると信じる。