3年前に亡くなった夫とは7歳離れていた。
昭和54年、当時のアイドルの山口百恵ちゃんと同い年のさゆり、その恋人の三浦友和さんと同い年の夫と結婚をした二人であった。
当時はまだ、女は結婚したら仕事は辞めて家庭に入るのが当たり前と言われていた。
結婚したばかりの若いさゆりは夫とは別の職場に移動になった。
そして、そこの最高責任者に移動の挨拶をしたおり、
「結婚したのに、いつまで仕事する気だ!」
と言われ、何とも言えない不快な思いを持った。
今ならパワハラとか、何とか言うのであろう。
夫との結婚生活もいつの間にか40年を超えていた。
その間
3人の子供達が産まれ、子供達が小さい頃は夫の職場の転勤と共に県内を転々として暮らしていた。
今なら子供達の事を第一に考え、子供の転校を避けるためにお父さんの単身赴任とかも考えるのだろうが、
夫の勤務地に家族揃って引っ越して付いて行くという以外選択肢も持たないさゆり達だった。
若いさゆりは、と言うより夫より7歳年下のさゆりは今から思っても夫を頼りに生活をしてきたんだと思う。
結婚当初はまだまだお給料も少なく、カツカツな生活ではあったが、それなりに節約を楽しんでいたと思う。
その頃のさゆりは、一万円ぐらいの物でも夫に確認しないで買うなんて事も出来なかった。
結婚当初は家計簿をきちんと付けており、たとえ1円でも合わないと悲しくなったものだった。
仕事帰りのスーパーの肉屋では、
「豚こま100グラム(98円)下さい。」
当時のスーパーの肉屋は量り売りであった。
毎回「豚こま100グラム」を買って行く若い客を店の方はどう思っていたのだろう…
長女を妊娠して仕事を退職したさゆりはある日、スーパーの外でミシンの展示販売をしているのを見かけた。
ミシンは嫁入り道具として持って来てはいなかった。
妊娠当初のひどいつわりで寝込んでばかりいたさゆりだったが、安定期に入ると暇を持て余していた。
「ミシンがあれば、生まれてくる赤ちゃんの物がつくれる。」そう思い込んださゆりは、なんと、
そこに居た販売員をすぐ近くのアパートに連れて帰り、当直明けで家にいた夫を説得してほしいと頼んだのであった。
夫はミシンの購入を許してくれた。
当時の夫の手取りと同額の高いミシンであった。
そのミシンは長い間活躍して、子供達の洋服からドレス、さゆりの簡単な普段着、家の中の小物の制作にと、活躍した。
今から30年前に夫の実家に同居した際には家中のカーテンを手作りした。
当時の夫の手取り分の値段だったそのミシンは新居を建て、しばらくしてソファーの厚い生地を縫っているときに壊れてしまった。
一度は修理もしたのだったが、その寿命は夫より先に逝ってしまった。
「本当にこの高いミシン買ったら使うの?」と、少々疑っていた夫もその後、「ロックミシン」が職場で斡旋していたからと言って買って来てくれたりした。
(そんなさゆりが今ではひとりで車も買っちゃうし、なんなら「古民家」だって買っちゃおうとしている…)
そんなふたりではあったが、
長い結婚生活の間には夫の態度に理解に苦しむ時もあり、さゆりは自分には全く悪いところもないのになぜ?と思っていた時もある。
(そう思う自体何もわかっていない妻だった…)
守られるべき者は妻と子供達、さゆりはそう疑わなかった。
夫にはそれも負担であっただろうと、今なら分かる気もする。
若かった二人が年月を重ねる中で、他の人も経験していくような、
親の病気と闘病と、その死、
兄弟の問題とそのかかわり、
そして、
子供の数だけ、その喜びと悩み、
自分自身の健康問題、
長年連れそってきた夫婦のすれ違った思いと、お互いを思いやる気持ち、
今ならひとつひとつ、口に出して思いを話し合うべきだったとさゆりは思う。
もちろん、それは夫との突然の別れがあったから思うのであって、そうでなければ、そんなふうに考えもしなかっただろうと思っている。
夫が亡くなる少し前、
夫の初めてかもしれない弱音を聞いたさゆりであった。
そんな事言ったって仕方ないじゃん!
そんなふうに言わないでよ!
夫の弱い部分、こころからの弱音、本音を聞きたくないさゆりは、夫に対して、
なぜ、私も辛いのに私に弱さをぶつけるのよ!
としか、思えなかった。
今なら、
私もそう、そう思う。
と、なぜ、受け止めてあげれなかったのか、
どこかで、長い結婚生活で生まれたお互いの心に溜まっていた澱をさゆりは許せなかったのかも知れない。
つまらない意地のかたまりであった。
だけど、
夫が突然亡くなる少し前、
さゆりは夫に確かめたいと思っていることがあった。
不思議なのであるが、確かにそう思っていて、機会があれば聞いてみたいと思っていた。
ねえ、私で良かったの?
もし私じゃあなかったら、あなたはもっともっと幸せになれたんじゃない?
確かに聞いてみようと思っていて、
そして、
ごめんなさい
と、謝りたかったのかもしれない、
実際にはそんなさゆりの思いも遂には話せず夫は勝手に亡くなってしまった。
どこまでも勝手な夫だったと思わなくもないさゆりではあるけれど…
無念なのはどちらの方なんだろうとふと、思う。
さゆりの
「古民家再生計画」
7月14日 8時30分、
姉の知り合いの若い大工さんと現地で落ち合う約束をした。
「古民家」の売り主さんの代理からその売値を聞いていたさゆりであった。
(さゆりが購入出来る金額であったが…)
そして、
大工さんの出した(建築士さんも同席)そのリフォーム工事の見積もり次第で、さゆりの気持ちを決定しようと思っていた。
もちろんそれだけではなく、その「古民家」の土地の役場にも、
移住支援制度や、リフォーム工事費用の助成金についても調べてあった。
その家の築年数により、その移住者には助成金も補助される。
しかし毎年、その予算は決められていて今年度はもうその助成を受ける事は出来ない。
リフォームも簡単な工事なら助成金もあるのだが、建築申請を出さなければならないような工事になると、その助成金は半額になってしまう。
問題はまだあった。
浄化槽を新たに設置した場合、その排水問題。
役場に行き台帳を見れば誰もがその排水路の所有の確認を知る事が出来る。
いろいろな事を調べれば調べるほど、さゆり自身の思いは無謀なものなのかと、自信がなくなるさゆりであった。
しかし、今回そんな世間知らずなさゆりが巻き込んでいった人々、
売り主の方もそうだが、売り主から依頼された業者の方、長女や長女の知り合いの建築士さん、そして姉や姉の知り合いの大工さんや建築士さん、
そして、いつもさゆりに付き合ってくれた友人、
皆さんに感謝しかない。
そして、なんなんだろう…
みなさん、良い人ばかりなんである。
世間知らずなさゆりではあるけれど、それでも60数年生きてきたから直感で、
この人はいやだ!
と思う人がひとりもいなかった。
出来るならこの人達との繋がりを大切に自分の思いを達成出来たらいいな、達成出来ないものかと思うようになっていた。
だから、さゆりも最初から掛け値なしに本音で話しをしていた。
だけど、
もう、
結論を出そう。
今回見つけた「古民家」の購入は諦めた。
いろいろ動いて「諦める」事をやっと納得したと言っても良いのかも知れない。
まだ決まってもない話を一部の知り合いに話していた。
確実でない話しをして「大ホラ吹き」と思われそうだが、
話す事で、本当に実行するんだ!と決意を新たにしたのも本当のことだった。
「物件」はこれから広告にも出されるだろうから、詳しい内容は割愛させていただこう。
「ブログ」を書き始めたころ、自分の話なんて読む人がいるのだろうか…
そんなふうに思っていた。
誰かのブログもひとりか、ふたりぐらいしか読んではいなかった。
3年前に夫が急逝して、それでも目の前の問題のためにか、我を忘れて泣き暮らす事も出来なく、不完全燃焼な毎日を暮らしていた。
何なら気が狂って何もかもうっちゃける事が出来たならどんなに楽かと、思う日もあった。
小さい頃からの苦難の日々もそれらを乗り越える為の修行だったとしたら、
それはあなたの思うつぼだったよ!と、その誰かに言いたい。
ただそんな中でも、いつかは訪れる夫との別れ、その想像をするだけで不安な気持を持っていた私にとって、夫は全てを承知で私に1番楽な選択をしたのだろうと思わずにはいられなかった。
強がっているけど、弱い小さい人間だと、わかっていたのだと思う。
誰も読まないだろうと思っていたさゆりのブログにも、
いいねをしてくれ、コメントまでいただけるようになった。
知らない誰かと繋がり、実際にお会いすることも出来た。
その方たちは60数年生きて来た「さゆり」ではなく、
今を「生きている」さゆりを知って頂けている。
伴侶に死に別れた人達はそれまでの伴侶との生活を知っている人達と、距離を置きたくなるようだ。と、さゆりは実感していた。
仕事中に家に居た長男からラインが入っていた。
やつからのラインは緊急事態発生の連絡が多くさゆりに緊張が走った。
「おかんの知り合いの人が訪ねて来たよ。お土産貰ったから連絡して〜」
少しホッとしながら、むくむくと苛立ちが湧いてくるさゆりだった。
自分に会いに来るのになぜ、事前に連絡くれなかったのか、
たぶん時期的に亡き夫の仏壇にお線香をあげに来てくれたのだろうが…
さゆりのこころのトゲがその存在感を知らせるべくチクチクと動いていた。
配偶者を亡くされた方がブログ内で、スーパー等に行きたくないと書いている。
仲良くお買い物をしている夫婦づれの様子が辛いと…
さゆりは夫と買い物なんて数回しか、したことはないので、
「夫婦づれの買い物」を見ても何とも感じなかった。
しかし、それは全くの赤の他人だからだと思う。
例えば、夫生存中から良く知っていたり付き合いのある方達を目にしたら、
流石に思う所はあるわけで…
そんな思いが昔の知り合いに会いたくない理由なのかも知れない。
いまさら、その時のさゆり達を知っている人にいちいち今の実情を説明し、その場限りの同情の眼差しと言葉もいらないのである。
もちろん、そんな方ばかりではないのだろうが…
そして以前(夫生存中)のさゆりもまた、そんなひとりだったことも踏まえた上で勝手な言い分だとわかっている。
なぜ、
「古民家」だったのか?
夫の残した「家」もあるのに…
その理由の中には、
障がいを持っている孫の存在があり、
彼の居場所としての役割として、その立地が最適だと感じていたのもその理由のひとつであった。
これも詳しい話しは出来ないが、少しでも何かの足しにならないかと思っていたさゆりではあったが、
実際に実現するには物理的、精神的な課題を克服していかなければいけないことと、思っていた。
他にも漠然とした思いがあり、しかしそれは目的よりその過程で立ち直って行ければと考えていた。
目的なんて、
達成してしまったら面白くも何ともないものだとこの歳だと知ってしまっている。
「古民家」のリフォーム費用がそれでも予算以内であったなら、
Second 第二章ではその過程を報告するつもりだった。
Second 第一章は希望と夢を残して終了するはずであったが、
まぁ、現実はそう甘くはなかったわけである。
「応援しています。」
「出来たら行きます!」
とコメントを頂き、さゆり自身どんなにうれしかったか、
この場をお借りしてお礼を言わせて頂きたいと思う。
今回の物件でのさゆりの計画は無くなってしまったのだが、
この先、形は違ってもじっくり考えて行くつもりです。
その「過程」をジタバタしながら生きて行ければと思っています。
来年の誕生日でひとつの区切りをつけるべく、この一年を準備出来たら良いと思っています。
応援して頂きました皆さん、
ありがとうございました。
はなから「さゆりの物語」として、どこかに「逃げ」を含ませて書いていましたが…
全て事実です。
「さゆり」は私自身でした。
「ブログ」を書いて良かったと思っています。
眠れない夜のひまつぶし…から、
本音や弱音を自由に発言出来る場所に、
コメント頂いた方達との交流、どんなにか嬉しかったかわかりません。
ひょんな事から、ブログ内でしか交流のなかった方達と世代を超えてお友達になれたこと、感激でした。
夫の急逝からまだ3年、もう3年、
まだまだ心がキュッてしてしまう時もありますが、
この
「死別ブログ」から少し離れようと思っています。
みなさん、今までありがとうございました。
またどこかで、Secondシリーズ始まるかもしれません。
それでは皆さん、
いつの日にかお会い出来たら良いですね。
さゆりこと、michiko1952でした。