2月20日は父の38回目の命日でした。
52歳で亡くなったから、生きていれば、90歳…
そこまで長生きはしなかっただろうけれど、
今思うと若かったんだなって、つくづく思います。
このブログを書き始めた頃、自分自身の生い立ちを書く中で、両親の事にもふれてきました。
父は仕事に対しては〇〇真面目なほうだったと思います。
ギャンブルや、外でお酒を飲み歩くと言うこともしなかったと思います。
ただ、金遣いは荒く、これは母もそうでしたが、
計画性というのを持ち合わせていませんでした。
ただ、遠く離れた故郷の、父の育ての両親や、姉弟には、見栄もあったのだろうけど、良くしてあげていました。
父の育ての両親は、北国で、ある宗教の教会に住んでいました。
そして、年に何度も西にある本部に、行くのです。
家と教会の本部の中間にある父の所へその度に寄って行くのです。
その両親に父は、父なりに一生懸命良くしてあげていたように思います。
もしかしたら、その都度小遣いなんかも渡していたかもしれません。
父の両親は北国で、父の妹家族といましたから、
私よりも年下の姪には、私の数少ない洋服をあげてしまい、だからといって新しく買ってくれるわけでもないので、私は困りました。
父は、腕の良い電気工として働いていましたから、それなりに良い稼ぎだったはずです。
それなのに何故、かと言うと、とにかく買い物が好きだったのです。
しかもローンで、
当時は、月賦と言っていましたね…
毎月の支払いが少なくても、それが何種類もあれば、その支払いだけでも大変だったと思います。
父の洋服は、テーラー〇〇さんのあつらえでした。
当時流行りだしたテレビショッピングは見たら、即電話注文!
ま、テレビショッピングは、母も好きでした。
亡くなった母の遺品整理の時には、使わないテレビショッピングで買った商品がゴロゴロ出てきました。
と、言うわけで3つ上の姉も私も自分の小遣いはアルバイトをして稼ぎました。
最近、姉と話すのは、自分達がなぜ、非行に走らなかったか、
それは、あまりに貧乏すぎて、遊びに行く洋服も、お金もなかったからだよね〜と、笑いあいました。
そんな姉の座右の銘は、
人生、ほとんどの悩みはお金で解決出来る!
と、良く言っています。
誤解のないように、
姉自身、お金に執着しているようには見えないのですが…
姉夫婦は、子供たちには貯金の大切さを教え、自分達は、子供たちに資産は残さず、使い切ると言っています。
父のことから離れてしまいましたが…
父は、50歳の時の検診で、肺に癌が見つかり、手術が出来ない箇所であったため、余命宣告の年数より早くその波乱の短い生涯を閉じました。
私は長女がまだ2歳だったこともあり、看病ということはしませんでしたが、
亡くなる前の夜は、実家の隣の方が(長女と同い年の子がおり、帰省したおりには良く遊んだ)長女を預かってくれ、父に、姉と付くことが出来ました。
その日は母を休ませていました。
父は亡くなるその前日まで、意識もはっきりあり、
ベッドの上に起こして欲しいと言いました。
姉と二人で父をベッドの上に起こしましたが、もちろん、自力で座っている事は、出来ません。
私は、父の後ろから父を囲むように座り、父の小さくなった身体を支えました。
父はしばらくすると、それも辛かったのか、すぐに横になり、便をしたいと言いました。
父は、トイレに行きたかったのでしょうか…
娘二人に下の世話になるのが、しのびなかったのかもしれません。
それが、最後の父の便でした。
そこから、父の意識はだんだん遠のき、翌日の日をまたいた頃亡くなりました。
今でも、その時間には必ず目が、覚めます。
私はというと、そんな父の臨終の場に立ち会っても、
なぜか、実感がありませんでした。
眼の前のことが、現実に思えなかったのです。
子供の頃から、辛いことがあると、
これは現実じゃあない!
これを体験しているのは、私の形をした外見(着ぐるみみたいな物)で、中の私は大丈夫!
と、思い込もうとしたクセがありました。
心のブレーカーが落ちるといったとこでしょうか…
そして、
主人の突然の死の時から、またそのブレーカーは落ち続けているように思います。
そろそろブレーカーもあげなければいけませんね…