今回は、命の最期。

だれしも、必ず迎える 死 について
向き合ってみたい。


ぼくは、母のお腹にいるとき、
この世に 表に出てくる寸前

母の父~おじいちゃんが 亡くなっている。
肉親を亡くした 過酷な状況のなか、

母は、破水が早くて大変だったと、明かし
昭和46年 10.1.   産まれた。


まがりながらも、
まっすぐ歩こうとしても、
目に見えない力学がはたらいて、
上手く生きられないけど、
現在 なんとか 生きている。

いま、戦争状態で、
いつも、どこかで、
自分自身の 死 を意識している。

支配者に言われて 誘導されることなく、
運命にしたがって 委ね 最期をむかえたい。




縁起悪いから やめろ❗ という声が飛んできそう。
でも あえて ここで出す。
自分たちの住む国 国家に 凶器と狂気を感じるからだ。



 洗脳と戦争 経済の企業間競争。

どうして同じ人間同士 いがみあい、
殺し合わなければならないのか。

経済 お金を生み出す仕組みのなかに、
死 というものでさえ、
換金の材料になってしまっている氣がしてしまう。

死を商売にする生業。
 葬儀屋 病院 武器商人 と畜 麻薬取引 結構ある。

例えば、農薬使用の規制緩和、添加物容認世界一、
    処方医薬品の増加。
    直ちに健康に悪影響が出るものではないが。
    肝臓に そしてここから身体全体に染み渡る。

 儒教の教えの根幹は、
上のものには、どんなことがあっても、
絶対 服従。逆らってはならない という教え。
儒教がニッポンに伝わったのは 西暦513年。

 江戸時代に、キリシタンを弾圧すべく
江戸幕府が 寺院に対して、庶民の戸籍管理を委ねた。
      高い地位も与えられて。

明治政府に変わり、
明治五年、大政官政令 という大改革がおこる。


歴史の教科書に出ない。テストにでない。
旧暦が新暦に変わり、大自然と人間とのつながりである暦が
人間中心の太陽暦に。

宗教が大きく変わった時期。
        肉食の導入など、僧侶も酒をたしなみ、妻を持つようになり、
ニッポンのもつ和の文化が、
         次々に失われていく。そして太平洋戦争に。




 宗教界が、不殺生の根幹をすり替え、
      殺し 死を容認した。

      現在でも、死につきものの、
      葬式仏教だけがのこり、幅を利かせている。


      これだけ人の命が脅かされているにも関わらず
      寺院 神社は、何をしているのか、という疑問があふれる。

死を考えるは、生きる 活かすを考えること。
そんな機会になれば、幸いです。

人間 等しく 好き嫌いでなく
いつかは、肉体は朽ちていくし、
形あるものは、なくなっていくものだから。


死生同源。
死 を考えるは、生を考えること。

死 を嫌うは、生きることの責任を
誰かに依存し、無責任になること。
その心理を上手く操作されて、
今日のコロナ騒動の 戦争状態、洗脳されたゾンビ状態に。

また、同じ過ちを
まるで、先の大戦あとをコピーしたように、
繰り返している。

⛩️神社の宮司、寺院の坊主👨‍🦲から
コロナの、マスク😷やワクチンについて
多くを 語られていない。
つまり、

沈黙~容認 暗黙のオーケーサイン。

寺院の葬儀では、
ほとんど、強制に近い形で
マスク😷着用 させられる。

寺院 宮司 マスコミ 医師など、
私たちのかけ込み寺のような存在が
すべて あちら側 と明らかになった。

自分自身であること。
自分の意思できめること。

それしか、逃れる方法はない。
いま、見ているものは、間違いなく 地獄 だ。
 



新しい時代を迎える前
汚れた因果をすべて洗いだしてから、迎える。

列島の汚れを 嵐をおこして
雨風で、祓うように...



読んでくださり、
本当に ありがとうございました‼️