第2回 信州の山奥から来た村上海賊!? | 海賊がつくった日本史

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現在、2017年新春に出版する予定の仮題『海賊がつくった日本史~海の道の歴史~』という著作を執筆中です。その中の小ネタを待ちきれない読者のために小出しにします。著作が出版されるまでの間、これで我慢して待っていてくださいね。

村上海賊の祖の話は後日として。
 実は、村上海賊の総領の血脈は前期と後期では別脈だといわれています。
皆さんがよく知っている戦国時代の村上海賊は、後期の村上氏です。
前期の最後を飾ったのは、南北朝の戦乱で、大活躍した村上義弘です。
最初は足利尊氏に従い、鎌倉幕府の滅亡に貢献し、主家だった河野氏の滅亡の危機には、の跡継ぎ徳王丸を守って戦い、その後は南朝に味方したという武勇の人で、「海賊大将」と呼ばれました。
 しかし、義弘には跡継ぎがいなかったため、村上氏の総領家は途絶えてしまいました。
そこで、南朝の重鎮で策士の北畠親房が、斡旋して、同じ村上天皇から分かれた村上源氏の一派である信濃国の村上氏から師清という武将を連れてきて、総領に据えたというのです。この師清が後期村上氏の祖だと言われています。だから、家紋が同じ「丸に上」だともいわれています。
 ただし、この説は、村上海賊の地元・愛媛県や広島県の郷土史家には評判があまり良くないのです。その代わりに主張されているのが、北畠親房の子の顕成だというのです。
北畠親房は「神皇正統記」を書いて南朝の正当性を主張し、奮戦した貴族で、第二次世界大戦前は英雄視された人物です。しかも、村上天皇から連なる村上源氏の正当な後継者である氏長者の血筋だったのです。
 なるほど、村上海賊の子孫の皆さんが、祖先が信濃国の山奥の分家から来たというよりは、氏長者でもある南朝の英雄の子孫だと言いたい気持ちはよく分かりますね。