ずっと読もうと思って本棚を占領していた本。
入院時にもっていって読み切りました。
甲野善紀さんが紹介していて気になったんだっけ。

キリスト教布教のためにアマゾン奥地の言葉すらまともに通じない部族ピダハンのもとで生活することになったアメリカ人宣教師の記録。
そしてそれまでピダハン以外には理解、会話できなかったピダハン語が解読されていくまでの記録でもあります。

何がすごいって、キリスト教宣教のためにまずは言葉を理解することから始めた著者が、気がつけば彼らの文化を深く理解するにつれとうとう本来の目的であった布教どころか自らの信仰すら捨ててしまったその経緯の記録であること。

著者は彼らピダハンと生活を共にするにつれ、段々と彼らの在り方に感銘を受けるようになり、10年以上かけて翻訳した聖書を「んなもん要らん」と拒否されたあたりから、なぜ彼らがキリスト教を拒否するのか、
そしてなぜ彼らが今まで見たこともないくらいにずっと笑いしゃべり、幸せそうであるのかを理解するようになります。

彼らには直接自分が見聞きしたか存命中の誰かが体験したことしか興味がなく、信じようとしません。
知らない誰か、死んでしまった誰かの言葉や体験は実証できないために彼らにとっては価値のないものと捉えます。

そして、何かを伝えるために直接自分が見聞きしたことではなく伝達するための普遍的な概念となる数や色、左右といった言葉がなく、未来形や過去形、完了形といった文法もない。
日々お互いがお互いを思い合って暮らしているので決まり文句のようなあいさつの言葉もなく、所有という概念も希薄(それは夫婦であっても)

とはいってもジャングルの中にいる精霊たちや夢の中の出来事は彼らにとって間違いなく現実に存在するものとして捉えている。
でも会ったこともないキリストや神の話は彼らには価値がないのです。そしてどの民族にあると思われていた創世神話ももちろん、ない。

食物は保管せずその日のうちに食べる。
食事が取れないことはよくあるが、それは当たり前のことであって、なんならそれが自分たちを強くするとすら考えている。
生も死も当たり前にあって自力で生きていけないものは死ぬ定め、と一見冷徹に見える価値観を持っている。

未来を不安に感じることもなければ過去を後悔したりすることもない、今この時を生きることに集中している彼ら。鬱もなければ自死もない。
著者の母が自死したという話を聞いた時はなんで愚かだ!と笑い転げる。

30年以上ピダハンと生活を共にし、宣教師をやめ、信仰すら捨てて言語学者となった著者が深く掘り下げていくピダハンの価値観や世界観、そしてその文化と言語が不可分であること。

途中言語学の話のあたりは小難しくて難儀しましたが、400ページ近い大著、一気読みしてしまいました。

文化人類学とか民俗学とかが好きな方にはオススメっ!