僕はポケットから210円を取り出して、愛想のない店員に支払った。

そしてエッグサンドとクリームパンを受け取りそれを車の中で食べた。決しておいしいとはいえないが、まずくはない。


コンビニのパンをまずいというやつは愚かだ。

コンビニのパンはコンビニのパンとして完結していて、焼きたてのパンを提供するパン屋とは比べられない。焼きたてのクリームパンとコンビニのクリームパンを比較して考えるから、コンビニのパンがまずいとなるのだ。


だから僕はコンビニのパンを食べるとき決して比較しない。コンビニのパンとしてそれと食べるのだ。コンビニのパンということを理解して食べればまずいなんて事はなくなる。

 

 しかし、焼きたてのパンを食べるときは、コンビニのパンと比較し、うまいと感じる。

コンビニのパンをまずいと感じず焼きたてのパンをうまいと感じるほうが気持ち良いからだ。

もし、自分がうまいと感じたとき、一緒にいる誰かもうまいと感じてくれたら、食事をする場面においてそれ以上の幸せはないだろう。

決してやってはいけないことは、コンビニのパンをまずいという人とうまいパンを食べることだ。



僕は彼女と海の上を歩いているような気がした。

空気のような軽さで、つま先が水面に触れると小さな波紋を作っていた。

ピアノの高音の鍵盤に柔らかく触れたようなが音が等間隔で響いていた。



どこかに向かっているのではない。僕らは思うところどこへでもいけるのだ。

例えば、どこかの戦場でも、3つ星を獲得したフランスレストランでも、マンハッタンを一望できる高級ホテルのスイートへでも、地底人の住む穴倉でも、おそらく天国でも地獄でもいけたし、きっとキリストとムハンマドに一緒に会う事だって出来たに違いない。

でも僕達はそのようなところへはいかないし、リアリティーに欠けていた。

だから僕らはこの1週間一緒に歩きつづけた、道を再び3時間もかけて歩くだろう。

僕らの歩く道には、特筆すべき物は何もなかったけれど、僕と彼女は同じ物を見て、言葉に出しはしなかったけれど同じような感想を抱いていた。それらは、太陽が朝上って、夜沈むのと同様に、僕らにとっては自明のことであった。

そして彼女はこの散歩の後に決まって「ありがとう、今日もあなたと歩けてとても楽しかったわ。よかったら明日も一緒に歩いてくれないかしら?」というのだ。そして僕は「ああいいよ。明日も得にすることはないからね。君と歩かなければ、ヘッセの小説をまた読み返すところだよ。5度目になる。」という風なことを言うのだ。

それから僕はJRで30分ほどかけて家に帰る。そして何度見たかもわからないくらい観た「荒野の決闘」を観てベッドにはいるのだ。



Bill Evans Trio
Waltz for Debby

聴いていて思ったこと・・・感じた世界観・・・




今日、9月10日公開の映画「タッチ」 の書店向け試写会に参加してまいりました。

大阪の東宝関西支社の試写室で15名程度の他店舗の店員さんと一足先に映画版タッチを堪能させていただきました。


大きな流れのストーリーとしては原作とほぼ同様なのですが、ひとつだけ違うとすれば、南ちゃんが新体操をしていないということ。それだけ伝えてしまうと、「なんだよー、だめじゃん」とかいう声が聞こえてきそうですが、そんなことはないのです。映画版タッチの美しい映像にはレオタードとかが登場するとどこか世界観が違ってきてしまうのかもしれません。小学館の営業の方も話されていましたが、メガホンを取った「ジョゼと虎と魚たち」の犬童一心監督も、ぜひレオタードのシーンをと頼まれ続けたそうですが、それを拒み続けたそうです。僕個人的にはそれで成功だったなぁと思います。

コミック文庫で14巻あるストーリーをどうやって収めるのかなぁと見る前は感じていましたが、脚本は素晴らしい出来上がりでしたよ。

冗談じゃなく泣けました。久々に泣きました。周りの方も涙を啜っていらしたので、間違いありません。


そしてタッチを少しでも知っている人なら一番気になるところが、キャストです。

朝倉南役の長澤まさみさんは、完璧でした。監督に彼女しかいないと思わせただけのことはあります。

アニメ・コミックの南ちゃんファンの期待を裏切ることはないでしょうし、期待以上に朝倉南の魅力を体現してくれていますよ。

そして、小学館の方もはじめは心配だったという斉藤兄弟ですが、彼らもよかったです。野球経験者ということだけあって、投球シーンなんかでも全く違和感はありませんでしたし。H2のドラマみたいなCGの連発ではなかったです。(小学館の方がH2はSFでしたねと皮肉を言ってました。)本当の双子だからこそ見ている僕らからしてみれば、いっそう喪失感を強められたのではないかと思います。 


その他のキャストも映画版タッチ、オリジナルのタッチ、双方の魅力を壊すことはなく演じられていました。


この映画をみて高校とかもっと幼かったころのピュアで淡い思い出が懐かしく感じられ、心が軽くなる気がしました。夏の高校青春ドラマといえばタッチに決まりだなと勝手に物思いにふけってしまいました。

映画が公開されたらもう一回見に行きたいなぁと思います。

今日、僕は暗闇の中にいた。


暗闇の中で決闘する二人をみた。


彼らはアメコミに登場するいかにも悪役のようなやつらだ。


2人はまるでミュージカル役者みたいに大げさな動作で立ち振る舞った。


そこに流れていた音楽は、あまり知られていないプログレッシブロックのバンド。


僕はこの手のジャンルの曲をあまり聴いたことはなかったが、今までに聴いた中で言うと中の上くらい。


このジャンルでの一番はというと、プログレッシブというと誰もが思い浮かべるであろうバンドが僕もご多分に漏れず好きだ。


今流れている曲は、彼らの曲に比べるといささか情緒に欠ける。


プログレッシブ特有の曲調はただ勢いがあればよいという物でははい。


他のどんなジャンルより緩急が大切だ。


凪と嵐。草原と大海原。宇宙と地底。黒と白。天国と地獄。


その点において、この曲は、闇に沈むとか海の底とか、悪魔、敵、邪悪、といった面の印象が強すぎる。


そこで二人の決闘に話を戻すと、背景はカーボンブラックや消炭色といった具合だ。


二人の決闘は一進一退の互角。


そこに突如2人よりの上位の闇が現れて2人を支配してしまう。


しかしその闇もいずれより上位の闇に飲まれてしまう。


それを繰り返しいずれまた振り出しに戻ってしまう。ニーチェ風にいうと永劫回帰する世界。


闇なんてそんな物だ。


闇に進歩はない。前に進む用に見えて、同じ軌道のなかを彷徨っているのだ。


そこで眼を見開いて暗闇の中に光の隙間を見つけると、そこに1歩踏み出せるのだ。






Rovescio Della Medagua
La Bibbia

King Crimson
In The Court Of The Crimson King: 30th Anniversary Edition [Remastered]
荻原 浩
明日の記憶

僕達がいつも何気なく口にする人の名前、物の名前や物の使い方、その他の行動、それらは僕らが生まれて、無意識にまたは意識的に身につけてきた記憶で、その記憶が突然曖昧になったり消え去ってしまう。そんなことをもちろん考えたこともなかった。

例えば、大学受験のために身に付けた世界史の年代、数学の公式、そんな事を忘れてしまうことと、いつも通う駅までの道のりを忘れてしまうこととは明らかに異なる。

公式を記憶していることは知的知識であるが、毎日通う駅までの道のりを記憶していたからといって僕らはそれを知識とは呼ばないだろう。しかしそれらはともに記憶で、生きていく上での重要度からいけば後者のほうが明らかに必要な記憶なのである。駅に行くまで自転車に乗るならばその乗り方、または自転車が自転車でありその役割が何であるか、赤信号で止まるという事、ブレーキのかけ方などなど、当然のごとく行うことであるがそれらはすべて記憶である。


それらが突然消えてしまうこと、考えたこともなかった。死の宣告のような恐ろしさがある。

この本の主人公は若年性アルツハイマーにかかり徐々に記憶を失っていく。広告代理店に勤める50代のサラリーマン。部長の座にあり働き盛りのさなかにこの病気にかかってしまう。会社の社員、取引先の社員の名前が出てこなくなったり、会社、家への道のりを忘れてしまう。そのために大量のメモを持ち歩くが、仕事に支障をきたす、徐々に社会に適合できなくなっていく様がとても詳細に描かれ恐れと悲しみが伝わってくる。そんな中で彼の闘病を支える妻とのふれあい、娘とのふれあいが、雲から差す太陽の光のように暖かい優しさをもたらしてくれる。

もし自分がこの病気にかかってしまったら、大好きな人、物、の記憶がいずれなくなってしまうと判ったら何をするのだろう。自分が自分でなくなってしまうような状態の中で何を見、聞き、話す、のだろう。



この本の帯にもあったけど最後の1ページ、特に最後の5行に言い表せないほどの感動して、鳥肌が立った。

アイ・ヴィー・シー
禁じられた遊び


扱うテーマがすごいと思った。


第二次世界大戦下のフランスでの物語で、ドイツの爆撃によって両親をなくした女の子(ポーレット)が死んだ子犬を抱いてさまよっているところを少年のミシェルに見つけられ彼の家に滞在することのになる。

そこでポーレットとミシェルは子犬を埋葬するために人間の墓地から、たくさんの十字架を盗んだり、子犬と一緒に埋葬してあげる動物を探す。

少女抜群のかわいらしさと彼らの純粋さ必死さに、やわらげられているけど、「死」というテーマが潜んでいる。現代の僕達が見れば、残酷であり、こんなに小さい子供が堂々と身近に死と向き合っているなんて当時の戦争下でなければありえないのかもしれない。


とにかく少女のかわいらしさは戦争時の物語であるということを忘れさせてくれるほど、かわいらしくて、守ってあげたくなるミシェルの気持ちか用意に察せられます。


ラストのミシェルのセリフ

「100年守っていて」

というセリフがとても心に鳴り響いた。


浅野 いにお
ひかりのまち

少し前に出た新刊です。

小学館サンデージュネックスから出た、浅田いにお 『ひかりのまち』 です。

知る人ぞ知るなのか、広く知れ渡っているのかは微妙なところですが、僕は浅田いにおサンの作品が大好きです。彼はまだ新人で前作の『素晴らしい世界』も僕はとても好きなまんがです。彼の作品は今作も『素晴らしい世界』もそうですが、1話読みきりで、前話ではチョイ役だった人が、次の話の主人公になっているといった様に世界の横のつながりを感じさせてくれる。この世界がくだらないと思っている小学生、生まれ育った町を命がけで守ろうとするチンピラ風の青年、強盗、コンビニ店員、サラリーマン、などなど彼ら登場人物は何か秀でた才能を与えられているわけでも、ヒーローみたいなやつでもなくて、いわゆる普通の一般庶民なのです。そんな彼らは、悩んだり不条理なことにめぐり合ったり、時には法を犯してしまったりする。読んでいて何か切ない気持ちにさせられたり、悲しくなったりするけど、でもやっぱりそれでも生きていると、ささやかな幸せはちょっとしたところに転がっていて、その小さな幸せに気づいて拾い上げることが出来るようになろうって思いたくなりました。劇的な感動ではないけれど、ゆっくりとした、小さな希望とか未来とかそういった物が少しだけ輝いて見えるような作品です。世の中や人間のつながりは捨てたもんじゃないし、世界はやっぱり素敵なんだよって気づかさせられるようなきがしました・・・



僕は雲をぼんやり眺めることが好き。

だから雲ひとつない快晴よりも、雲がある空のほうが好き。

ヘッセの小説に雲が大好きな主人公が出てくるけど、

僕はきっとそれ以上に雲が好きだ。根拠なんてないけど、僕はそれほど強く雲の事を思う。

雲は自分の存在とは全く無関係な物でも何でも生み出す。

高層ビル群のど真ん中で、

建物の間から垣間見えた雲が、

パンダに見えた。

海辺で眺めた雲が、

疾走する電車に見えた。

家の窓から空を見上げたら、

戦士とフェニックスが戦っていた。

例えば

天気のいい日

広い広い誰もいない原っぱで、

大好きな人と仰向けになって、

空を見上げる。

 

 あっ、あの雲ペガサスみたい。

 

 ほんとだね。でも僕には、ラファエロの描いた天使みたいに見えたよ。

 あ~!そっちのほうが、おしゃれかも。

 じゃぁ、その天使はあそこにいる猫にこう言うの

   今からあっちにみえる山を越えて行くと君を待っている人がいるよ。

 って。

 そしたらあの猫は風に乗ってぐんぐん山の向こうに走り出すの。

 私達から見えなくなるくらい遠くまで・・・

 その続きは?

 

 わかんない。

 だって雲だもの。

 あの雲はすぐに形を変えて、山の向こう側であの雲を眺めている人に新しい物語を与えるの。

 そう考えると、楽しいでしょ、空と雲は世界一大きな、絵巻なの!

 

 きっと、素敵だね。

 あっ、足、蚊に刺されてる。かゆい。

 

 掻いちゃだめだよ。

 家に帰ったらムヒを塗ろう。

 

 

タイトル: カサブランカ 特別版

今日はコレといって書くこともないので僕の好きな映画の1つ「カサブランカ」をレビューしようかと思いました。。。

この映画に関していえば、見たことある人も多くて、見たことなくてもタイトルを聴いたことはあるであろう、名画中の名画です。ですからやはり僕も多聞にもれず名画だと思います。


この映画がアカデミー賞を受賞したのは1943年。今から62年前のことです。そんなに昔の映画が現代にいたっても人気を博し、日本でDVDにまでされ、僕のような人間が田んぼに囲まれた一軒家で冷房を効かせながらPCに向かってその映画について勝手に云々語ろうとしている。他生滑稽な気がしないでもないですが、コレはすごいことじゃないか!あんな白黒の映画がですよ。


なぜそんなにも生き残り続けたのか。さまざまな要因があるのだろうが、何を調査したわけでもない僕にはわからない。ただ時代が変わればそれを受け取る側の心情も変わる。この映画が作られた当時は政治的な眼で見る人や自らに重ね合わせてみる人もいただろう。現代の僕らは当然過去の話だからまぁそれなりにみるだろう。ということで僕は月並みだが、ハンフリー・ボガードのダンディーさがかっこよすぎる。憧れだろう。今の世の中で「君の瞳に乾杯」なんていったらほとんどの人が、何だこいつとついには不審になったりするのだろう。


まぁ何でもいいや疲れた。とにかく僕はこの映画が大好きで、ハンフリー・ボガードやイングッリド・バークマンみたいな人たちの人柄やセリフやファッションがかっこいいなぁと思ってしまうのでした・・・

「建築とは空間を作ることである。」

さっきテレビの「世界遺産」で、リートフェルトのことを放送していました。

その番組でリートフェルトの言葉として紹介されていた言葉です。

建築が空間を作る、まぁなんとなくそうだろうと感じました。


ただ、空間って何?

やっぱり「間」っていうくらいだから3次元だろうか。

そして例えば、アフリカの大平原、大草原を思い浮かべて、そこを「空間」と捉えられるか。

僕のイメージとしてはそれを「空間」かと問われれば、首を傾げてしまう。

だから「空間」のイメージとしては、何物か(壁であったり、国境であったり、物理的に見える見えないに関係ない物)によって限界、境界を与えられているものと考える。

しかし、そこで考えるのが、宇宙について。

よく宇宙のことを、「宇宙空間」などという。ということは宇宙に限界があるのか?

それは僕にはわらない。たぶん今、わかる人、絶対的に断言できる人なんていないのだろう。

ただ「宇宙空間」と呼ばれるのは人の恣意によって限界が与えられたのだろうと思う。(意識してか無意識にかは判らない)

人は限界のわからないもの、見えない物に対して、恐怖、畏怖を感じる。宇宙なんて壮大で未知で日常外のものに対してはなおさらである、

だから宇宙には「空間」を与えて、少しでも人間の理解内に置きたかったのではないかと思う・・・


どうだろうか?