ご訪問ありがとうございます。

 

虹羽(こう)です。

 

 

今日から9月ですね。

 

 

我が家では全国紙の他に

 

群馬県の地元紙、


上毛新聞を購読しています。


(かつて作家の横山秀夫さんが


記者をされていた新聞社です)

 


今朝、そのコラム


『三山春秋』を読んでいたら、

 

「9月1日は宮沢賢治の


『風の又三郎』で

 

“ 赤い髪の少年が


山の学校にやってきた日”


だった」

 

という話題から始まりました。

 

 


宮沢賢治の作品は、


小学生の頃によく読んでいました。

 

なんとも不思議な世界観の物語が多く、

 

それまで読んでいた童話や昔話によくある


普通の「めでたしめでたし」で終わらない、


ちょっと形容しがたい?


(独特なオノマトペが溢れる)


その世界観が好きだったのだと思います。

 

 

ちなみに私の小学六年生の時の


夏休みの宿題の読書感想文は

 

『ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記』

 

で書いたくらい好きでした(^▽^;


 

 

『銀河鉄道の夜』や『セロ弾きのゴーシュ』


『注文の多い料理店』等など、


有名な作品を読み返してみると、


宮沢賢治は天文だけでなく、


鉱物や化学にも詳しい事がよくわかります。




科学者でもあった宮沢賢治の作品は、


大人になって読み返すと、


子供の頃とはまた違う発見が


たくさんあって面白いです。




で、このコラムに、子どもたちに


最も良く知られていると思われる


『雨ニモマケズ』


に関する


とても興味深いエピソードがありました。




賢治の弟、


清六の孫にあたる方のお話によると、


賢治が手帳に『雨ニモマケズ』を書いたのは


亡くなる2年前で、その頃はもう


結核で体が弱っていたそうです。


出版したいと思っていた作品は


全て原稿用紙に書いていた賢治は、


手帳に書いただけで、この作品は


世に出すつもりは無かったとか。




その『雨ニモマケズ』で


賢治が大切にしていたのは、



「東ニ病気ノコドモアレバ


行ッテ看病シテヤリ」



に続く東西南北の部分だったそう。



この


「行ッテ」


というのが大切であり、



「いくら知識や知恵を持っていても、


それをこの世で実践しなければ意味がない」



と宮沢賢治は考えていたのだそうです。


『雨ニモマケズ』は



「サウイフモノニ


ワタシハナリタイ」



の言葉で終わっていますが、



「本当はそうなりたかったけれど、


なれなかった。


賢治の祈りが込められている」



とコラムは締め括られています。




深く深く、心に残った文章でした。



37歳で没した賢治の年齢を


随分越えてしまった私、


年齢なりの経験も積んで、


興味ある事は色々勉強してきました。


でも、それをちゃんと実践しているか?


と聞かれると…( ̄▽ ̄;) 



私が師事している先生もよく


「テキストを本棚にコレクションせず、


勉強した事を自分や家族に生かしなさい」


と仰います。



有難いことに、特に病気もなく


まだまだ元気な私。


私にも、世の中のお役に立てる事が


何かしらあるかもしれない。



「サウイフモノニ


ワタシハナリタイ」



で後悔して終わる事なく、



「サウイフモノニ


ワタシハナル!」



で、実践していきたい。


そう強く強く思いました。